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読書感想文 白痴

I'm a hakuchi

読書感想文4 育ててもらった恩という弱み 夏目漱石 『道草』を読んで

道草 (1951年) (新潮文庫〈第267〉)

 

新潮文庫 なー1-14

2002年4月20日 第91刷

(1951年 初版 発行)

 

概要

漱石の自伝的作品。彼とその家族、そして少し複雑な生い立ちがモデルになっている。

 

 

大学の教師として働き、妻と二人(最終的に一人増えて三人)の子供を養う主人公、健三。金銭的に余裕があるとは言えない彼のもとに、島田という男が金の無心にやってくる。健三はかつて島田の養子だった。幼い頃に健三の両親が離婚したため、島田が彼の養育を引き受けたのだ。しかしその後、健三の父と島田に不和が起こり、健三は生家に復籍。以後、島田とは縁を切っていた。ちょっとややこしいので図を描いてみた。マウスで描いてみるとひどいもんである。

 

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(簡単にいえば、一時期島田の子供だったことがある。いまは縁を切っている)

 

すでに離縁しているので、キッパリと断ればいいものだが、健三は結局金を貸してダラダラと中途半端な関係を続ける。そこには情はなかったが、「育ててもらった恩がある」という通念に理性が従ってしまった様子が伺える。

 

 

最終的には健三は島田と縁を切ることになるが、相手はまだ生きてこの世にいるので今後またどうなるかはわからない。健三は「片付いたのはうわべだけ。」という。

 

 

愛があるんだか無いんだかわからない微妙な覚めた夫婦関係。金のことでまとわり付く兄姉など、当面に忙殺されながら人生は続くし世界は廻る。小説はいつかは終わる。なのに健三(漱石)の現実は何も片付かない。

 

 

ー世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こったことは何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。

(p.292)

 

漱石の名言だ。

 

 

育ててもらった恩ってそんなに大切か?

さて、健三が離縁したはずの島田に金を与えてしまったのは「育ててもらった恩」があったからだ。しかし物語全体のトーンからいっても、それは人情のような温かいものではなく、むしろ彼の弱点のように捉えられている。「育ててくれた親にマジ感謝」という美談は万人に当てはまるものではない。批判を覚悟で書くなら、僕はこの恩というものの存在がどうも「弱みを握られている」ような感じがして居心地が悪い。血がつながっていようがなかろうが、育ててもらった恩というのは人生の中でかなり大きな借りである。その気になれば、これを使って子供を支配することができるし、彼らの思考や行動を縛ることもできる危険なものだ。

 

 

こう感じるには理由がある。僕の家庭は母子家庭で、母は「女手一つで子供を育てて大変なのにえらい!」みたいなことを世間から言われていた。それは子供の頃の自分にかなり重く圧し掛かった。「ただでさえそんな大変なところ、子供(僕)が反抗したりして手を焼かせてしまったら、どれだけの負担になるだろうか。」そんなことに気づいてしまった子供の僕は、結局ろくに反抗期も迎えることもなく大人になった。そうすると皮肉なことに、心のこもった親への感謝よりも「育ててもらった恩」は自分の急所みたいになってしまった。

 

 

しかしそんな理屈はすべて棚上げして、親の庇護にありながらも反抗することこそが、思春期のお決まりの、あの反抗期とやらのミソなのかもしれない。そして親も「誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ!」などという禁句を持ち出さないマナーをもって子供の反抗に相対する。こういうことが理想だったんじゃないかな、と今になって思う。

 

 

かつての養父に対して冷徹になれなかった健三。彼を見ていると「育ててもらった恩とは何なのだ」という疑問を抱かずにはいられない。いっそ、親への感謝を一度疑ってみたくてこんなことを書いた。

 

以上

 

追記

言い訳をするが、僕の心に感謝の念など一ミリも無い、なんてことは言いたくない。実際ずっと面倒を見てくれた祖父母に対してはまっすぐに感謝している。それは、何の遠慮も無く自分の気持ちを伝えたりわがままを言える相手だったからだ。ということに最近気づいた。

 

 

 

読書感想文3 家族は安全でなはい 斎藤学 『依存と虐待』を読んで

依存と虐待 (こころの科学セレクション)

 

日本評論社 こころの科学セレクション
2005年10月30日 第1版 第7刷
(1999年2月10日 第1版 第1刷)

 

概要 

 

 虐待が起こった家族にみられる心の病や、問題を抱える家族が抱える依存症について、複数の小論文やエッセイをまとめたもの。精神医学、臨床心理学の専門家からNPOの代表、元依存症患者まで様々な立場の人々が執筆している。

 

どの章にも共通しているのは、依存症は本人のみならずその家族全員を巻き込んで進行する、という認識だ。特に家族が"共依存"という依存症にかかると、時に患者本人の病状を悪化させることがあるという。この共依存という用語は本書のキーコンセプトとなっている。

 

共依存について

 

永田カビ 著 『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』のような内省的なエッセイのヒットを通して、家族の機能不全とその弊害について広く語られるようになったと思う。色々な議論のなかでよく訴えられている「生きづらさ」は共依存という概念の様々な具体例だといっても過言ではないと思う。
 
 
共依存とはアルコール依存症などと同様、依存症の一種だ。他人の問題に関わり、それに振り回されていないと平常を保てない状態、またそういった特殊な人間関係のことをいう。
 
 
この概念はアルコール依存症の臨床から生まれた。一見、被害者に思われる依存症患者の妻が、実は自身の置かれた境遇に耽溺してしまっており抜け出すことができない。自分の不幸と無力に旦那(と子供)を巻き込み、支配しようとする。結局、夫は「ダメな妻」のもとでは現状を変えようとしないし、妻は「アル中の妻」という立場に立つことで自己を承認する。互いにこの不健全な関係を求める、共に依存し合うから共依存なのだ。

 

 

家族関係の悩みについてネットの記事を読むと、よく「毒親」という概念を耳にする。これは子供の毒になる親のことで、過干渉や虐待などで子供の発育に悪い影響を及ぼす親のことをいう。生きづらさの原因を親に求める場合、自分が被害者だと一方的に思いがちだ。だが実際はお互いがその関係から抜け出せなくなっている共依存にあることが多い。真に必要な解決策は、子による「親離れ」と、親による「子離れ」だ。もしも、家族との関係に問題を抱えているなら、あなたのするべきは彼らと「対決」することではない。また、自分が強くなって「成長」することでもない。特殊な人間関係を解消することに全力を傾けることだ。

 

家族は安全ではない

 

本書で紹介されている事例や自身の経験からいえることは、家族は思ったよりも安全ではないということだ。その私的な空間では公の法律は適用されない。小さな子供にとって、荒んだ両親は恐怖の対象で、その影響は絶大だ。(問題のある家庭で育った子供もまた、共依存となる可能性があるといわれている。)家族はあたたかいものという価値観を押し付けようとし、世間はこの問題から目を逸らそうとする。アメリカでは親による性的虐待という問題が公に認められ、議論されるまで非常に時間がかかったそうだ。

 

 

僕自身も、言い争いをする家族や、女性に暴力を振るう父に怯えながら部屋の片隅で震えていた経験がある。今にして思えば、「弱くて可哀相な父親」と「女手ひとつで子供を育て上げた母」に対して離れることも反発することもできなかった、そういった歪んだ人間関係があったのだと思う。結婚をして本質的に家族と離れることで、僕は改めて家族の危険性を客観的に理解することができた。

 

 

変にタブーにせず、この問題をせめて認識し、もう少しオープンに議論できればいいと思う。



以上

 

 

 

雑記2 日本の面接は本当にコミュ力重視か

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この年になると周りがけっこう将来のことを考え出し、仕事を辞めるとか転職したとかいった話をよく聞く。就職といえば面接である。あー自分はコミュ力(コミュニケーション能力)がないから上手くいかなかったな、とか思い出して苦い気持ちになった。しかし面接でコミュ力が重要だといわれるわりに、「コミュ力抜群の人間」というものは周りにそうそう存在しない。それでも僕の周りの人間のほとんどがなんらかの面接をパスして仕事やNPO活動等を行っている。果たして面接でコミュ力は重要なのか。

 

 

「コミュ力重視で採用なんかするから、日本の経済力は地に落ちた!」なんていう議論もたまに目にするが、本当にそうだろうか?少なくとも自分も含めたまわりの人間がコミュ力抜群とは思えないのだ。

 

面接は論理的思考力を重視する

働いている身からすると、別にコミュ力抜群の人間がほしい!と思ったことはない。末端の僕がそうなのだから、役員や人事だってそこが欲しいとは思ってないだろう。逆に来て欲しくないのは、論理的に物事を考えられない人間だ。暗い人や声が小さい人より、こういう人と接しているほうが、実はイライラすることが多い。

 

 

そもそも論理的思考力とは何のことだろうか?ものすごいありふれた言葉だ。僕は「順序立てて、ステップを踏みながら、ゴールにたどり着くことができる力」だと思っている。そして、「あるステップから次のステップに移るとき、その理由をしっかり説明できること」がポイントだ。これができない人は物凄く仕事の効率が悪い。

 

 

一番の理由は、単純な暗記に頼って仕事をすすめるのですぐに脳のキャパシティがいっぱいになるからだ。AだからB,なのでC。Cということは答えはDだ。という思考は一見回りくどくて、「答えはD」という事実を覚えておくだけの方が効率がいいように思える。だけど仕事には本当に色々なパターンがあるので、その答えはD1,D2,D3,,,,,,といくらでも出てきてやがて覚えることができなくなってくる。重要なのはむしろA→B→Cというステップの踏み方を身につけて、色々な場面に応用できることだろう。また、これができないとレパートリーに無い場面に出くわしたときに何もできなくなる、という弊害もある。それが本当に答えが出せなくて上司に相談すべきものか、もっと考えればわかる問題なのかもわからない。だから「あいつはどうでもいいことを聞いてくるくせに、自分の判断で勝手にやばいことをやらかす。」なんてことを言われる。

 

 

企業が面接を行う際もこの能力を見る。企業活動はリスクの塊で、常に答えがない問題にぶち当たる。そういうことに対して自分なりの意見を持つことができて、どうしてその意見に至ったかを説明できるかどうかを見極める。むしろ、口がうまくてハキハキしているだけの人間に本気でだまされるほど会社は甘くないと思うべきだ。

 

 

コミュ力無くても自信を持つべき

なんでも極端はだめなので、さすがにコミュニケーションが全くできなかったら面接は難しいだろう。だけど、そもそも面接のようなガチガチに緊張する場でうまく喋られるなんて企業は期待していない。経験上、話しづらそうにしていると、面接官側からも色々と誘導してくれることが多かった。それは彼らが応募者の頭の中を見たがっているからだと思う。だから、面接を受ける際は聞かれたことの意図を汲み取って、それに対してむちゃくちゃ考えて、その過程を一生懸命説明できればそれでいいと思う。

 

だから自分にコミュ力が無いからと言って絶望するのはもったいないと思う。がり勉は低評価、サークル幹事は高評価、みたいな二元論にだまされないほうがいい。「恋愛経験豊富な方が、仕事ができる。恋愛のプロセスは仕事と同じ。女もおとせないようでは顧客も落とせないぞ!」みたいな、うまいこと言ってやったとしたり顔な気持ちの悪いコラムなんか気にしないほうがいい。童貞でも一流企業で働いている人間だっているだろう。

 

 

人事でもないのに偉そうなことを書いてしまったけど、働いている身から思ったことを吐き出してみた。とにかく自信をもって頭をむっちゃ使いましょうということ。

 

以上

読書感想文2 文三のルサンチマンについて 二葉亭四迷 『浮雲』

浮雲 (岩波文庫)

 
岩波文庫 31-007-1
1992年 4月15日 第59刷
(1941年 3月24日 第1刷 本書の初版)
 
概要
 
1887年から1889年にかけて発表された作品。3編第19回で未完となっている。物語は以下の人物の三角関係を軸に進む。
 
 
内海文三...学問はできるが世渡りが下手
本田  昇...要領がよい、軽薄才子
お勢  ...器量良しだがかぶれやすい
 
 
官僚批判や世相への皮肉はあるものの、作者の関心は自身の心に湧いてくるルサンチマンへの葛藤にあると思う。文三のモデルが作者自身なのは明らかだ。彼の言動や心理に作者の苦悩が反映されている。ちなみにルサンチマンの意味は下記のとおり。
 
 
ルサンチマン...強者に対する弱者の憎悪や復讐衝動などの感情が内功的に屈折している状態。ーー怨恨
 
ルサンチマンとレッテル貼り
 
文三と昇は対照的な性格だ。昇は人の機嫌取りが得意で、課長にプレゼントしたりと外交や人付き合いに熱心だ。その甲斐もあってリストラを免れ、昇進までした。対して文三は努力家で秀才だが、頑固で融通が効かない。間違っていると思った事を割り切って実行できない。結果、失職することになる。
 
 
次第に文三は昇(強者)へ劣等感や畏れを抱いてゆく。それはそのまま恨みに変わっていく。そして相手へのレッテル貼りによって溜飲を下げる。現に文三は昇の事を卑屈で下劣な者と見下したような発言をする。しかし作者は文三にも悪いところがあったと認めている。作中で、文三の叔母はそれをバシバシ指摘するし、お勢も「あなたと気が合わないものはみんな破廉恥ときまっていない」と言う。よくないと分かっていてもつい湧いて出てくるこのルサンチマンに、作者は嫌気がさしているのだろう。文三と昇、どちらがいいのか、結局答えは出なかったから本作は未完となったのだろう。
 
 
文三のように人を見下す行為は非常に卑しいことだが、身の周りでも見かけることが多い。学生の頃、クラスで騒ぐ女子グループを見て、「馬鹿は羨ましい。何の悩みもないだろうから。」と呟いた女子を見た。その女子は、僕らのクラスでは全くモてない部類の子だった。騒いでいる女子グループとの間には、明らかにスクールカーストに基づいた上下関係が存在していた。当然誰にでも悩みはあるし、その女子グループは馬鹿と決まったわけではない。相手を知ろうとせず、頭ごなしに否定するのは相手を畏れているからだ。本書では、実は昇にも彼なりの苦悩があることも匂わせている。しかし文三には歩み寄ることができるほどの余裕はなかった。
 
 
上記の女子のことは、学校という価値観の多様性を欠いた狭い空間では無理も無いことだと思う。だけどこういう「ルサンチマンを抱く→レッテルを貼る」というサイクルはインターネット上でもよく見られる。(”軽薄”、”下品”、”馬鹿”という単語がよく使われるのも明治からの伝統だろうか。)その点、二葉亭四迷はこれを(頭では)理解し、文三を諌めることで向き合おうとしたと思う。彼の感覚が浮世離れした印象が無く、我々に近いと感じたのはそのためだろう。
 
以上、