読書感想文 白痴

I'm a hakuchi

読書感想文8 哲学は訳がわからないということがわかったということ 中島義道 『哲学の教科書』を読んで

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

 

講談社学術文庫 1481

2016年4月21日 第41刷

(2001年4月10日 第1刷)

 

この本は読んでよかった。自分にとってかなりの大躍進であった。

 

概要

 

普通、哲学の教科書となると、

「哲学は植民都市ミレトスの自然哲学者を起源とし、、、」

ソクラテスは紀元前470年、アテナイに生まれ、、、彼の考えでは、、、」

といったスタイルになりがちである。

僕は哲学関係の本が大の苦手で、一冊でも最後まで読みきったことがない。そんなんだから色々と教科書といわれるものにも手を出してきたが、哲学者達の列伝を読んだり、哲学という学問が歩んできた道(哲学史)を学んだところでちっとも進歩はなかった。相変わらず哲学がわからなかったのである。

 

本書はそういったテキストとは趣を異にしている。過去の大哲人たちの解説にはあまり紙面が割かれていない。たぶんまともにフォーカスされていたのはカントぐらいだったと思う。350ページにわたって説明されていることといえば、

哲学って深い話とか人生論だとか思われてるけどそんなありがたいものではない。

(第二章 哲学とは何でないか)

だとか

哲学者はこんなことに頭を悩まされている。目の付け所のおかしい人たちである。

(第三章 哲学の問いとはいかなるものか)

ということである。

この、否定から入る論法はかなり効果的だ。しかも平易な言葉で説明してくれるからわかるわかる!


本書を読んだことで、哲学そのものを理解できるわけではない。大学の講義で用いるような「テキスト」として見た場合、本書の内容はあまりにも貧弱だ。ただ、哲学は訳がわからない!ということはよく理解できる。これが僕にとっては大きかった。著者も、ある程度はポピュラーな哲学的議論を紹介してくれる。ただし、しばらく議論を深めたかと思うとほっぽり出してしまう。体よく言えば、読者である我々にその答えをまかせるのである。

訳がわからないだろう。できるものならやってみろ。

といわんばかりである。結果、読者はこの過程を経て、哲学、ひいては哲学者にシンパシーにも似た親近感を覚えることになる。今までの、ただ訳がわからない状態とは天と地の差だ。

 

なぜ哲学は訳がわからないのか

 

これこそが本書の肝である、と僕は思う。本書では、カントのある一文を引き合いにだし、その意味をわかりやすく説明してくれる章がある。ここを読めば、なぜ哲学は訳がわからないのか、見えてくる。

 

ところで、僕が哲学に対して苦手意識を持っている理由は、その文章がさっぱり読めないからだ。哲学者の文で一番イライラするポイントは、その場限りの用語が、何の説明もなしに、頻繁に使われている点である。言葉が難しいから、ということとは根本的に違う。なぜなら、ただ難しい文は用語さえ調べれば、ただの単語の言い換えで案外簡単に理解できるからである。だけど、哲学の文章は違う。

 

そもそも用語とは、同じ分野の中であればある程度共通の意味をもって用いられるものである。なのに哲学書の場合は、各々が各々の著作内(むしろそのセンテンス内!)だけで特有の意味をもった用語を使用してくる。なので、入門書をひいても、インターネットで検索しても、まったくその用語の解説がでてこない!数学の論文みたいに、本文の初めに定義を説明してくれているわけでもない。これには完全にお手上げ状態だった。

 

そこで本書である。著者は僕のこのストレスにたいして実に的確な答えを提示してくれている。本書によると、そもそも哲学とは物事をむちゃくちゃ疑う姿勢のことである、という大前提を頭に入れておかなければならない。ここで疑いをかけられる物事は、普段僕らが常識だと思っているものであることが多い。

 

例えば、僕らは過去という概念を当たり前のように認め使用している。実際に思い出すことができるからだ。しかし、過去を想起するのは紛れもなく現在の僕である。僕は現在を生きている以上、想起というアクションも今の僕がとっている行動に過ぎない。そう考えると、本当に過去などというものは存在するのだろうか?といった具合に、とにかく哲学者はこの当たり前を疑う。(ラッセルの世界五分前説等は有名かもしれない。)そして過去があるのか無いのか、あーだこーだ考えて証明しようとする。こういった営みが哲学だと本書は説明する。

 

さて、こういった常識に対する違和感や疑いを説明するためには、それ専用の言葉が必要になってくる。そしてその言葉は、発音や書き方は日常生活のものと変わらなくても、特別の意味が与えられることになる。上記の「過去」の例を見ても、既に「過去」という単語が3つに枝分かれしてしまっているのがわかる。

 

①普通、僕らが当たり前に使っている「過去」。もちろん僕らはこの過去をあると信じている。そして、まさに哲学者に難癖をつけられている被害者でもある。

②僕らの脳が引き起こす、「想起される過去」。一般常識である「過去」という概念を、現在時刻の脳みそが(または心が)引き起こす行動、とわざわざ定義したものである。

③「真の過去」。過去はあるのかとうだうだ考えた結果、たどりついた結論としての過去である。それがいかなるものなのかは、推論や証明の過程により変わってくるだろう。幾重もの思惟というフィルターを通ってきたことにより、それは①の「過去」とは似ても似つかないものになっているだろう。「過去」というものが無いと結論付ければ、「真の過去」とはすなわち「無」という形をしているかもしれない。

 

この3つを全部同じ「過去」と書いてしまうと説明にならない。なので、やむを得ず②を「意識の時間的遡及」だとか、③を「確認可能な事実」等とさも専門用語であるかのように呼ぶのである。

 

つまり、哲学というものが世の中の大前提を疑う行為である以上、日常の手垢にまみれた言葉を用いることはできないのである。だから哲学者は難しい言い回しをする。これこそが、僕をイラつかせていた「その場限りの用語」の正体なのである。

 

ここで、なぜ、哲学は訳がわからないのかがわかってくる。それは、普通だれも疑わないことを疑う行為だからである。そしてその疑いに気づかないまま、哲学者の話を聞こうとするからである。そもそも前提とする常識が異なるのだから、使われている言語からして異なる。意味を共有できないから、その場限りの用語を乱発されていると感じるのである。 



今後、哲学者の著作に挑戦する際は、まず相手が何を疑ってかかっているのか。そこを理解したいと思う。ちょっと斜め上の発想をもって迫りくる言葉たちを、「もしかして、こういう事に悩んでるの?」と包容力をもって迎えてやるのだ。そして最大限の配慮と推察をもって、その意味を理解してあげる。哲学を読むのは非常に骨が折れる。なぜ哲学は訳がわからないのか、その理由さえわかればまだ打つ手はある。と希望的観測をもって哲学書に挑んでいきたいものである。

 

以上

 

追記:上記にあげた過去についての話は、本書内で紹介されているものを僕が勝手に解釈して書き直したものである。よって、ここで使われた「意識の時間的遡及」だとか「確認可能な事実」という用語はあくまで例え話であり、実際に使用されているわけではない。

雑記6 言いたいことが無い病について

ここしばらく、ブログを更新していなかった。

特に書きたい思うことが無かったからである。

 

僕は長年にわたってこの「言いたいことが無い病」に苦しんできた。

果たして、世の中に対してとか、おまえについてとか、

言いたいことなんて本当にあるんだろうか。

アイツ腹立つとか言って誰かを呼び出したこともないし、

新卒就職の面接でも特に言いたいことが無かったので困ったものである。

ブログが自分の言いたいことを発信する場であるなら、

じゃあ何を書けばいいのだ、と更新がとまっていたところだった。

 

が、ここになってどうしても書きたいことがでてきたのである。

 

かいつまんで書くと、

中島義道の『哲学の教科書』という本を読んだことで

哲学に対する長年の苦手意識が解消された、ということである。

この出来事は自分の中では大躍進だった。

(この本に関する読書感想文はまた後日投稿しようと思う。)

 

ここではたと気づいたことは、

自分は己の意見を誰かに伝えたいのではなく、

単純に「こんなことがあったんだよ」と聞いて欲しいだけだ、という事実である。

 

世の中で起きている事象を考察し、新たな視点を投げかけることであったり、

何かの作品や誰かの意見に対し、批評することは本当に大したことだと思う。

そのために文を書いている人はすごい。またそういう文章を読むのも好きだ。

しかし、僕自身が何かを書く際の動機は、もっと無邪気なものだったようである。

要するに、子どもが親に「ねーねー聞いて」と今日あったことを話すのと同じ。

ある本を読むことで味わった感動や、構築できた知識をただただ聞いて欲しい。

いやむしろこうやって文に残すだけで満足しているのかもしれない。

 

そう考えると、読書感想文というブログの題名はふさわしくないなと思えてくる。

だけどいままでの記事を見る限り、そもそも感想文ですらないものも多いので、

いまさら変えないことにした。

 

そう考えるとずいぶん楽になったので、

これからはあまり堅いことにとらわれずにブログを更新していきたいと思う。

 

 

以上

雑記5 レアメタルはどれくらいレアなのか 中村繁夫『レアメタル超入門』を読んで。

レアメタル超入門 (幻冬舎新書)

 

今現在、レアメタルに関係する仕事に携わっている。

 

中国と日本の関係がこじれたときに、中国が供給を渋るぞとかいって有名になったので、聞いたことがある人も多いのではないか。レアというからには、めったにお目にかかれないめずらしいもの、というイメージもあるだろうが実はそうとも限らない。

 

レアメタルとは以下のものをいう。

”「地球上の存在量が稀であるか、技術的・経済的な理由で抽出困難な金属」のうち、 工業需要が現に存在する(今後見込まれる)ため、安定供給の確保が政策的に重要 であるもの”

経産省 鉱業審議会レアメタル総合対策特別小委員会 の定義

 重要なのは、

・産業に役立つこと。

・そのわりに流通量が少ないこと。

ということである。つまり絶対的な存在量はあまり関係がない。だから、量もある程度あるけれど凄い需要が大きいとか、存在量は確認できるけど採算のとれる採掘方法が確立されていないもの、などもレアメタルに分類されたりする。国によって分類が違ったりするし、そもそもレアメタルと呼ばずに「マイナーメタル」等と読んだりする。鉄やアルミと違って、それがメインで使われることが少ない、補助的な役割が多いからだろうか。

 

 

あまりレアではないレアメタル

したがって、上記の定義に従えば、全然レアではないレアメタルも結構ある。

 

まず一つ目はニッケルである。

 

使用用途の広い優秀な金属なので、本当にそこらじゅうに使われている。なのでそういう意味で全然レアじゃない。特にレア感のない使われ方としては

 

・メガネのフレーム

・100円玉

 

がある。ニッケルは昔から硬貨に良く使われている。5セント硬貨をそのままニッケルと呼んだりする。ちなみにバンドのニッケルバックという名前は「5セントのおつり」を意味するらしい。

 

 

別のパターンとしては、むちゃくちゃ存在量が多いものがある。

 

例えばランタンとセリウムというレアアースは結構豊富に存在している。ランタンは鉛(レアメタルでもなんでもない)の三倍もの量が存在していることがわかっている。セリウムに至ってはランタンの倍だけ存在するという。しかし、採掘抽出したりリサイクルするのにコストがかかるので商売にすることが難しい。なので流通量が少ないので、そういう意味でレアなのである。

 

つまりレアメタルのレアとはめずらしいというよりも、需要と供給を比べて供給に不安があるものを言う。事実、レアメタルの相場はかなりめまぐるしく変化する。だから、相場によってはニッケルなんかも「手の届かない」という意味でレアになる。

 

本当にレアなレアメタル

2017年5月現在、最もホットでレアな金属といえばコバルトである。現在の相場は高くて1ポンド25ドル。ピンとこないだろうが、1kgあたり6,000円もする。たとえば、銅とかアルミは1kg600円台ほどである。コバルトはかつては1kgあたり3,000円台のころもあったので、その急騰率を考えてもレアなのである。

 

用途としてはスマホのバッテリーとか、ハイブリッド車の車載用電池がある。(ハイブリッド車についてはほぼ試作段階だったが、ある程度技術的にめどがついている。)コバルトブルーという言葉があるとおり、顔料に使われたりもする。とくに車載電池の需要を見越して投機熱が高まり、ここまで急騰してしまった。車メーカーなんかは材料費の爆上げに右往左往している。リサイクルなどの技術革新にかなりの予算が割り当てられていると思う。

 

もう一つは金である。これはレアメタルではなく貴金属ではあるけど、身近なくせにとにかく少ない。セオドアグレイの元素図鑑によると、容積にして5,832立方メートルしか存在していないらしい。だいたい25メートルプール10杯とプラスもう一杯いくかどうかである。

 

さらにレアなものをあげるとすれば、アスタチンである。これはそもそも金属ではなくてハロゲンだが、たぶん一番希少なんじゃないかと思う。いまこの瞬間に、地球上に平均して28グラムほど存在している。この元素は寿命が数秒~8時間しかないため、すぐにガラガラと崩れて他の元素になってしまう。つまり崩壊したり誕生したりを繰り返して、"平均して"28グラム埋蔵されているのである。実は最近の研究で、癌治療に使える可能性が出てきている。そうすると、需要に対しての供給という意味では究極の”レア物質”になることは間違いない。

 

 

いずれにせよ、レアメタルは我々の生活に欠かせないという点でとても身近な物質である。興味があれば、冒頭の書籍よりも、下記のセオドアグレイの元素図鑑をおススメする。

 

以上。

 

世界で一番美しい元素図鑑

読書感想文7 優生思想に反対する三つの利己的な理由 『現代思想 2016年10月号 相模原障害者 殺傷事件』を読んで。

現代思想 2016年10月号 緊急特集*相模原障害者殺傷事件 (青土社)

青土社

2016年10月1日 

 

概要 

2016年7月26日に神奈川県相模原市の障害者福祉施設で発生した事件。所謂「相模原障害者施設殺傷事件」をうけての緊急特集である。11人もの学者・専門家たちの論考が特集として組まれている。

 

その多くが「優性思想」について語っている。そしてこの思想については基本的に批判をしている。優生思想とは、簡単にいえば「劣っている者は排除して、優秀なものだけを遺そう。」という考えである。容疑者は「社会の役に立たない障害者は殺すべきだ。」と証言していた。この考えが事件の動機のひとつであると考えられている。

 

当然僕もこの思想には反対である。しかしその理由を説明する際はよく考えなければいけない。こういう議論は、「なぜ人を殺しちゃいけないんですか?」というさながら真剣十代朝まで生討論チックなふわふわした議論になりかねない。僕が優生思想に反対する理由は三つある。そしてそれらはどれも自分の身を考えての帰結である。

 

 

理由1.僕は間違いなく劣性側の人間だから

僕はこの事件のことを知り、初めて優生思想という概念に触れた。非常に大きなショックを受け、恐ろしくて仕方がなかった。「僕は間違いなく排除される方だ。」と身の危険を感じたからだ。

 

 

僕は1歳のころから急に虚弱体質になり、過去に二回死にかけている。その後遺症で肺は片方が壊死し、ほぼ機能していない。小さい頃から弱弱しく死にそうだったので、色々な人に迷惑をかけた。僕のようなここまで世話のかかる子どもは生まれてくるべきでなかった。と生きていることに申し訳なさを感じた。つまり優生思想論者のいう「生きる価値のない人間」だったのだ。

 

 

幸い、高校生でやっと身体ができてきて、残った片方の肺が頑張ってくれたおかげで今は問題なく暮らしているし、働いてもいる。ただし、万一薬を切らしたり、何かの拍子に体調が悪化すると、幼少期に逆戻りすることも十分考えられる。そんなとき、優生思想論者は手のひらを返して、今すぐ僕のことを殺しにくるのだろうか。そう考えると恐ろしいのである。僕は、自分が「優生種である」などと自信をもって主張することなどできない。今、体調は比較的良い。それでも、相模原で殺害された被害者の方々と僕にはあまり大きな差があるとは思わない。

 

 

僕は自分のことを劣った人間だと思っている。そういう身体と付き合って生きている。排除されては堪らんので、優生思想に反対なのである。障害者は社会の役に立たないから殺せ、という人間は、障害は先天性のものである。と信じこんでいるのだろうか。あなたは自分のことを優生種であると自信をもって主張できるか。暴走した車に突っ込まれて両足を切断することも、不摂生がたたって脳梗塞で半身不随になることも、これから一生自分には関係がないのだ、と言えるか。

 

 

理由2.優生社会は自殺社会だから

本誌に興味深い記述があった。

 

”脳血管障害の後遺症が固定して、周囲が障害者手帳を取得するよう勧めても、それに頑強に抵抗するのは高齢者自身である。......自身が、そうでなかったときに、障害者差別をしてきたからだ。自分が差別してきた当の存在に、自分自身がなることを認められないからだ。”

 

前項にも通ずるが、自分より劣ったものを虐げるものには、自分がその劣ったものになるかもしれないという想像力が欠けているように思える。そして、いざそれが現実になった場合、がんじがらめになってしまう。「役立たずは生きる価値がない」という自分がつくったルールにより自身の首をしめることになる。

 

 

失業者は生きる価値がない、などと僕は考えたことはない。30年間、働かずに僕達のことも養育しなかった父が今も生きているからである。なので、一時的に失業した際も気が楽だった。働いているからこそ生きる価値がある、という考えに囚われていると、いざ失業した場合に自尊心が大きく傷つくはずだ。生きる価値がない者になってしまったから、死ぬ。そうでなくても、仕事を辞めることへの抵抗感から、過労死に至ることもあるかもしれない。優生思想が蔓延した社会は自殺社会をつくりかねない。そして僕は自殺をするまで追い詰められたくないので、反対する。

 

 

理由3.優生学は恣意的すぎるから

社会の役に立たないものを殺してもかまわない、というなら、何をもって役に立たないとみなすかが問題になる。そんなもの、役に立たないから役に立たないのだ、といいたいところだろう。しかし、それでは効率的で利口な人間である優生論者の面目が立たないだろう。なので役に立たないということを厳密に定義する必要がある。

 

 

ある人間が、「役に立たない人間を処分する手続きに関する法律」に対してルールを設定できる立場に立てたとする。社会に貢献しているかどうかの尺度として、年収を採用し、ある水準以下の人間を処分すると考える。さすがに年収ゼロの人間だけを処分しては、優生なものだけを残せない。では、どの水準に合わせればいいだろうか。

 

 

ここで、彼の年収が600万円だったとする。このとき、彼が「年収800万円以下の人間は社会の役に立っていないので殺すべきだ。」と主張することは決してない。せいぜい100万とか200万に設定するだろう。では仮に、とんでもない富裕層の優生論者がいたとして、彼がこの権利を得たとする。その場合、彼が設定する年収は800万円どころか2000万円かもしれない。つまり年収600万円の先ほどの優生論者は即刻処分されることになる。

 

 

要するに、生殺与奪の権を他者にゆだねることは非常に危険だということである。そこには非常に大きな恣意性が潜んでいる。結果自分の身を危険にさらすのである。「よりよい社会のため。公共のためだ。」と主張するように見えて、じつのところ誰だって自分の身がかわいい。客観的で公平な滅私奉公ができる人間などそうそういない。優生思想は、そういった人間のダメな部分に目をつぶっている理想論にも見える。

 

 

長々と書いたが、簡単に言えば「そんな社会になったら、自分が生きづらいから」僕は優生思想に反対する。情けは人のためならず、ということわざがあるぐらいである。道徳云々を説く前に、僕は利己的な理由で主張をしたい。

 

以上。