読書感想文 白痴

I'm a hakuchi

読書感想文9  タテ社会の何が厳しいのか 中根千枝 『タテ社会の人間関係 単一社会の理論』を読んで

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

講談社現代新書 0105

2016年11月1日 第127刷

(1967年2月16日 第1刷)

 

年功序列やら終身雇用やらの文脈で、「日本はタテ社会だ。」なんていう言説は腐るほど聞いてきたが、えらい昔にこのトピックについて書いた本があったようである。

 

この本、とにかくタテ社会とヨコ社会の定義というか、捉え方が面白い。今読んでみても斬新である。本書が考察の対象にしているタテ社会とは、もちろん日本のことである。著者の切り口で考えてみると、最近インターネットで言われている「日本社会の生きづらさ」みたいなもの一端が見えてくるんじゃないかと思い、ちょっと長いけど書いてみた。

 

タテ社会のなにが厳しいのか

 

一般的に、タテ社会と聞いたときにイメージするのは、体育会系的な厳しい上下関係である。とにかく上の言うことは絶対。下の者は先輩や上司のいいなり、というイメージがある。が、著者の考察はそうじゃない。

 

例えば、本書ではこんな風に指摘されている。

 

各〃の代表またはリーダーが[......]客観的立場に立ちにくいということは、彼らが構造的に他の成員によってつき上げられやすい、という点にもある。

p.132より

 

どうやら必ずしも上の人間が絶対的に偉い、というわけではなさそうである。むしろ、下の人間が上の人間に圧力を加えるといった交流ができてしまう社会。つまりタテ社会は、上下に開かれた構造になっている。そして、そのメンバーの移動は上下に限られている。

 

縦長の筒の内部に螺旋階段のある、灯台のような建物をイメージすればわかりやすいと思う。人々はどこかの場に属し(閉じこもり)、その内部での上下運動(昇進とか)をしている。また、所属している場においてのつながりを重視するので、場を横断したヨコのつながりが希薄である。同じ日本人であっても、一つ隣の村の人間はもうヨソモノである。

 

上下への交流が持てる、ということは、厳密に言うと階級社会ではないということである。そりゃあ先輩からのイビリはきついだろうが、それはタテ社会の本質的な厳しさでは無い。では、タテ社会の何が厳しいのか。本書の中で特に的を射ていると思える部分がある。

 

伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力差には注目するが、「誰でもやればできるんだ」という能力平等観が非常に根強く存在している。

p.77より 

 

上へのルートがあればあるだけに、下にいるということは、競争に負けた者、あるいは没落者であるという含みがはいってくるからである。

p.104より 

 

「上に行くのも下に行くのも、あとはあなた次第。道は開かれています。」これがタテ社会の基本的な態度である。その裏には「みな、条件は同じなのです。」という暗黙の了解がある。ちょっと逆説的だけど、タテ社会は平等主義ということになる。そしてこの平等主義には何の根拠も無い。誰でもわかることだけど、人間ひとりひとり違うのである。とはいえ、これが社会の建前である以上、それを貫かないといけない。そこで問題になってくるのが、条件が他とまったく異なる者(イレギュラー)の存在である。タテ社会は、「みな平等」という前提が当てはまらない、こういったイレギュラーの存在を無視してしまう危険性がある。ここがタテ社会の一番厳しいところだと僕は思う。

 

例えば100m走において、日本人の成人男性の平均は13~14秒ぐらいである。タテ社会は平等主義なので、その平均から著しく離れるような、例えば片足の無い人にもそれを求めてしまうのである。つまり片足の無い彼の存在は、誰でも頑張れば上にいけるというタテ社会の根本を根底から揺るがすことになる。この場合、一番乱暴な対処法は、「そもそも片足の無い人間などいない」といわんばかりに、彼の存在を無視することである。それか、片足が無いという事実を都合よく忘れ、100mを平均タイムで走れない彼を「努力不足」「甘えている」と非難しだすこともある。

 

本気で平等主義を信じている、というよりも、平等主義の整合性を保つために例外を排除しているように感じられる。日本社会で感じる「生きづらさ」はこういうところから来ているんじゃないかと思う。

 

ヨコ社会は階級社会

 

本書を読んでいて一番意外に思ったのは、実はヨコ社会ほど階級社会、という点である。日本のタテ社会と対照的なもの(ヨコ社会の例)として、著者はインドを挙げている。

 

日本人の集団意識は非常ににおかれており、インドでは反対に資格(最も象徴的にあらわれているのはカースト -基本的に職業・身分による社会集団ー である)におかれている。

p.28より

 

よく知られているとおり、昔のインドのカースト制は厳しいものだった。各階級間の行き来(上下の運動)はできないことになっていたし、生まれた時点で定められているので努力ではどうにもならない。(もちろん近代ではそうとは限らない。が、この制度はインド社会の精神に大きな影響を与えている。)

 

その代わり、同じ階級の者同士のつながりが強く、ネットワークを構築しやすいんじゃないかと思う。ヨコ社会の人々は、同じ階級に属するという資格によって仲間意識を持つことができるからである。(対して日本のタテ社会では、いかに長い時間同じ場所で過ごしたかという物理的な場において絆が形成される。)厳しい階級社会においては、各階級(層)はある程度の厚みを持っており、互助の仕組みがつくりやすい。つまり、ヨコ社会とは、このような厚い層の断面である。層の中での行き来がヨコの動きなのである。

 

実際僕がインドを訪れた際も、あまり裕福でない層に属する人たちの仕事を見たことがあるけど、あまり悲壮感は無かったと思う。彼らは一つの仕事をいくつにも分割して仲間内で分担したり回したりして生活をしている、とそのときは説明された。(ワークシェア、と現地で呼ばれていたと思う。) 

 

僕がインドで目撃した例は、あくまで余裕のある都市部のことである。なので、ヨコ社会も当然いいことばかりではなく、現実はもっとシビアだろう。だけど、このヨコ社会とのコントラストで、日本のタテ社会のデメリットが見えてくる。つまり、細長いタテ社会においては、ヨコのネットワークが貧弱なので、いったん社会からはじかれると、同じ境遇の者同士で助け合うことが難しいのである。無視された上に、そこに閉じ込められる。座敷牢みたいである。

 

何も日本にカースト制を導入しろとか言うわけではないが、ヨコのネットワークは重要である。タテ社会の平等主義からつまはじきにされた者たちが層になれば、ある程度の力をつけることができるだろう。だけど、日本ではこういう「特定の層からなる集団」に対してのイメージが悪い。労働組合や障害者団体はなんだか訳のわからない怖い集団みたいに思われている。そして闇が深いとかいって変なうわさの標的になる。結局タテ社会では層を形成することができても、それも丸ごとタブー化され、見えなくされてしまう。ちょっと広い座敷牢に閉じ込められるようなものである。

 

だけど、ここまでインターネットが普及し、転職も当たり前になった世の中である。場に依拠した集団意識というものも、日本人の間で薄れてきていると思うし、ヨコのつながりで結託することへの抵抗感もそのうち無くなっていくんじゃないかと思う。僕自身、タテ社会から孤立しそうな場合、こういったヨコのつながりをフルに活用できれば助かる。

 

というよりも、こういうヨコのネットワークは世間を見渡せば既に存在していたりする。だけどタテ社会の中にいると、こういう情報はなかなか入ってこない。しかるべきところに相談できなかったために痛ましい事件が起こることもある。育児に悩んだ母親が孤立して、子どもに虐待をしてしまったりなんていうのは、まさにこういうケースなんじゃないかと思う。自分自身が座敷牢に閉じ込められないよう、ヨコのネットワークは持っておきたいし、そういうヨコの層がもっともっと厚くなってほしいと思う。

 

以上。

雑記7 宗教棚を作りたい

近頃、宗教に傾倒している。

 

日本では、宗教のイメージが良くない。オウム真理教イスラム国以外の宗教を知らない日本人。これは大変な悲劇だと思う。(当然、オウムとISは宗教ですらないけど。)これだけイメージが悪いのだから、宗教に興味がある人のことを「心の弱い、何か依存するものがないと生きていけない愚か者。」「だまされやすい金づる。」と罵倒する人が出てくるのもわかる。

 

だけど、もしも身近な人が亡くなった場合、一切の宗教的バックグランドを取り除いて気丈に振舞うことはできないと思う。少なくとも僕にはその自信がない。やはり死んでしまった人間の魂が安らかでいることを心から願うだろうし、その魂の永遠性を望むだろう。(飼い犬が死んだときでさえそう思ったのだから!)

 

僕自身、30歳を超えて、確実に身体がおかしくなってきており、よくわからん病気みたいなものも見つかってきた。また、そう遠くない未来に、身近な人の死も経験することになるだろう。僕の家系は代々病気をする血筋である。祖父も父も障害者で、僕自身も幼いころから身体が悪い。そんな人はいくらでもいるだろうが、宗教はそういった沢山の人たちを支えてきたではないか。

 

一般的な観点からいう「死」というものに疑いを持った僕は、少しばかりの哲学書を齧り、優生学にショックをうけた僕は、障害者(近いうちに僕自身もそうなると思っている)のことを考えながら、命は誰のものなのかを考えたりしていた。で、そういったことは既に宗教が得意分野としてさんざん説いてきたことである、ということを知った。

 

やはり行き着く先は宗教なのではないか?と思い始めてきた。行き着く、というよりかは「そこに戻ってくる」という感覚である。

 

しかし、宗教でもっとも大切なことは信じることである。仏でも、ゴッドでも、アッラーでも、ヤハウェでも、それに帰依することから始まる。

 

僕は偉そうに「宗教は重要だ」と語ることはできるけど、心の底からは信じていない。だから、そこは自分らしく、知識とか勉強とかで外堀から埋めていきたいと思っている。一番僕に合う方法は、いろんな宗教の本を読むことである。宗教の本は面白い。当事者でなくても、その宗教の言わんとするところのほんの表層だけでも、さらりと触れることができる。便利だ。

 

沢山、色々読んで、家の本棚に宗教棚を作りたい。

 

以上。

読書感想文8 哲学は訳がわからないということがわかったということ 中島義道 『哲学の教科書』を読んで

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

 

講談社学術文庫 1481

2016年4月21日 第41刷

(2001年4月10日 第1刷)

 

この本は読んでよかった。自分にとってかなりの大躍進であった。

 

概要

 

普通、哲学の教科書となると、

「哲学は植民都市ミレトスの自然哲学者を起源とし、、、」

ソクラテスは紀元前470年、アテナイに生まれ、、、彼の考えでは、、、」

といったスタイルになりがちである。

僕は哲学関係の本が大の苦手で、一冊でも最後まで読みきったことがない。そんなんだから色々と教科書といわれるものにも手を出してきたが、哲学者達の列伝を読んだり、哲学という学問が歩んできた道(哲学史)を学んだところでちっとも進歩はなかった。相変わらず哲学がわからなかったのである。

 

本書はそういったテキストとは趣を異にしている。過去の大哲人たちの解説にはあまり紙面が割かれていない。たぶんまともにフォーカスされていたのはカントぐらいだったと思う。350ページにわたって説明されていることといえば、

哲学って深い話とか人生論だとか思われてるけどそんなありがたいものではない。

(第二章 哲学とは何でないか)

だとか

哲学者はこんなことに頭を悩まされている。目の付け所のおかしい人たちである。

(第三章 哲学の問いとはいかなるものか)

ということである。

この、否定から入る論法はかなり効果的だ。しかも平易な言葉で説明してくれるからわかるわかる!


本書を読んだことで、哲学そのものを理解できるわけではない。大学の講義で用いるような「テキスト」として見た場合、本書の内容はあまりにも貧弱だ。ただ、哲学は訳がわからない!ということはよく理解できる。これが僕にとっては大きかった。著者も、ある程度はポピュラーな哲学的議論を紹介してくれる。ただし、しばらく議論を深めたかと思うとほっぽり出してしまう。体よく言えば、読者である我々にその答えをまかせるのである。

訳がわからないだろう。できるものならやってみろ。

といわんばかりである。結果、読者はこの過程を経て、哲学、ひいては哲学者にシンパシーにも似た親近感を覚えることになる。今までの、ただ訳がわからない状態とは天と地の差だ。

 

なぜ哲学は訳がわからないのか

 

これこそが本書の肝である、と僕は思う。本書では、カントのある一文を引き合いにだし、その意味をわかりやすく説明してくれる章がある。ここを読めば、なぜ哲学は訳がわからないのか、見えてくる。

 

ところで、僕が哲学に対して苦手意識を持っている理由は、その文章がさっぱり読めないからだ。哲学者の文で一番イライラするポイントは、その場限りの用語が、何の説明もなしに、頻繁に使われている点である。言葉が難しいから、ということとは根本的に違う。なぜなら、ただ難しい文は用語さえ調べれば、ただの単語の言い換えで案外簡単に理解できるからである。だけど、哲学の文章は違う。

 

そもそも用語とは、同じ分野の中であればある程度共通の意味をもって用いられるものである。なのに哲学書の場合は、各々が各々の著作内(むしろそのセンテンス内!)だけで特有の意味をもった用語を使用してくる。なので、入門書をひいても、インターネットで検索しても、まったくその用語の解説がでてこない!数学の論文みたいに、本文の初めに定義を説明してくれているわけでもない。これには完全にお手上げ状態だった。

 

そこで本書である。著者は僕のこのストレスにたいして実に的確な答えを提示してくれている。本書によると、そもそも哲学とは物事をむちゃくちゃ疑う姿勢のことである、という大前提を頭に入れておかなければならない。ここで疑いをかけられる物事は、普段僕らが常識だと思っているものであることが多い。

 

例えば、僕らは過去という概念を当たり前のように認め使用している。実際に思い出すことができるからだ。しかし、過去を想起するのは紛れもなく現在の僕である。僕は現在を生きている以上、想起というアクションも今の僕がとっている行動に過ぎない。そう考えると、本当に過去などというものは存在するのだろうか?といった具合に、とにかく哲学者はこの当たり前を疑う。(ラッセルの世界五分前説等は有名かもしれない。)そして過去があるのか無いのか、あーだこーだ考えて証明しようとする。こういった営みが哲学だと本書は説明する。

 

さて、こういった常識に対する違和感や疑いを説明するためには、それ専用の言葉が必要になってくる。そしてその言葉は、発音や書き方は日常生活のものと変わらなくても、特別の意味が与えられることになる。上記の「過去」の例を見ても、既に「過去」という単語が3つに枝分かれしてしまっているのがわかる。

 

①普通、僕らが当たり前に使っている「過去」。もちろん僕らはこの過去をあると信じている。そして、まさに哲学者に難癖をつけられている被害者でもある。

②僕らの脳が引き起こす、「想起される過去」。一般常識である「過去」という概念を、現在時刻の脳みそが(または心が)引き起こす行動、とわざわざ定義したものである。

③「真の過去」。過去はあるのかとうだうだ考えた結果、たどりついた結論としての過去である。それがいかなるものなのかは、推論や証明の過程により変わってくるだろう。幾重もの思惟というフィルターを通ってきたことにより、それは①の「過去」とは似ても似つかないものになっているだろう。「過去」というものが無いと結論付ければ、「真の過去」とはすなわち「無」という形をしているかもしれない。

 

この3つを全部同じ「過去」と書いてしまうと説明にならない。なので、やむを得ず②を「意識の時間的遡及」だとか、③を「確認可能な事実」等とさも専門用語であるかのように呼ぶのである。

 

つまり、哲学というものが世の中の大前提を疑う行為である以上、日常の手垢にまみれた言葉を用いることはできないのである。だから哲学者は難しい言い回しをする。これこそが、僕をイラつかせていた「その場限りの用語」の正体なのである。

 

ここで、なぜ、哲学は訳がわからないのかがわかってくる。それは、普通だれも疑わないことを疑う行為だからである。そしてその疑いに気づかないまま、哲学者の話を聞こうとするからである。そもそも前提とする常識が異なるのだから、使われている言語からして異なる。意味を共有できないから、その場限りの用語を乱発されていると感じるのである。 



今後、哲学者の著作に挑戦する際は、まず相手が何を疑ってかかっているのか。そこを理解したいと思う。ちょっと斜め上の発想をもって迫りくる言葉たちを、「もしかして、こういう事に悩んでるの?」と包容力をもって迎えてやるのだ。そして最大限の配慮と推察をもって、その意味を理解してあげる。哲学を読むのは非常に骨が折れる。なぜ哲学は訳がわからないのか、その理由さえわかればまだ打つ手はある。と希望的観測をもって哲学書に挑んでいきたいものである。

 

以上

 

追記:上記にあげた過去についての話は、本書内で紹介されているものを僕が勝手に解釈して書き直したものである。よって、ここで使われた「意識の時間的遡及」だとか「確認可能な事実」という用語はあくまで例え話であり、実際に使用されているわけではない。

雑記6 言いたいことが無い病について

ここしばらく、ブログを更新していなかった。

特に書きたい思うことが無かったからである。

 

僕は長年にわたってこの「言いたいことが無い病」に苦しんできた。

果たして、世の中に対してとか、おまえについてとか、

言いたいことなんて本当にあるんだろうか。

アイツ腹立つとか言って誰かを呼び出したこともないし、

新卒就職の面接でも特に言いたいことが無かったので困ったものである。

ブログが自分の言いたいことを発信する場であるなら、

じゃあ何を書けばいいのだ、と更新がとまっていたところだった。

 

が、ここになってどうしても書きたいことがでてきたのである。

 

かいつまんで書くと、

中島義道の『哲学の教科書』という本を読んだことで

哲学に対する長年の苦手意識が解消された、ということである。

この出来事は自分の中では大躍進だった。

(この本に関する読書感想文はまた後日投稿しようと思う。)

 

ここではたと気づいたことは、

自分は己の意見を誰かに伝えたいのではなく、

単純に「こんなことがあったんだよ」と聞いて欲しいだけだ、という事実である。

 

世の中で起きている事象を考察し、新たな視点を投げかけることであったり、

何かの作品や誰かの意見に対し、批評することは本当に大したことだと思う。

そのために文を書いている人はすごい。またそういう文章を読むのも好きだ。

しかし、僕自身が何かを書く際の動機は、もっと無邪気なものだったようである。

要するに、子どもが親に「ねーねー聞いて」と今日あったことを話すのと同じ。

ある本を読むことで味わった感動や、構築できた知識をただただ聞いて欲しい。

いやむしろこうやって文に残すだけで満足しているのかもしれない。

 

そう考えると、読書感想文というブログの題名はふさわしくないなと思えてくる。

だけどいままでの記事を見る限り、そもそも感想文ですらないものも多いので、

いまさら変えないことにした。

 

そう考えるとずいぶん楽になったので、

これからはあまり堅いことにとらわれずにブログを更新していきたいと思う。

 

 

以上