読書感想文 白痴

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読書感想文11 KAZUO ISHIGURO 『NEVER LET ME GO(私を離さないで)』神なくしてどう生きる。

Never Let Me Go

Never Let Me Go


Faber and Faber Limited
2006年
(2005年 初版)


訳書を過去に読んだことがあったので原著にもチャレンジをした。
訳書の読書感想文については↓
hakuchi.hatenablog.com

以前、同作者の『AN ARTIST OF THE FLOATING WORLD』を読んだときにも思ったんだけど、カズオイシグロの作品はとにかく難しい!
とにかく語彙がものすごく多い。見たことない単語にしょっちゅう出くわす。
ノーベル賞作家としては読みやすいほうだよ~」みたいに言われることが多いこの作家。だが僕個人としてはかなりタフに感じたし、辞書が手放せなかった。

ネイティブでない人間が英文を読むうえで、一つの関門となるのが叙情文だと思う。そしてこの作品はとにかく叙情文が丁寧。
結局微妙なニュアンスの違いを伝えようとすると語彙が必要になってくるんだろうか。

僕がカズオイシグロに興味をもったそもそものきっかけは日経新聞の記事だった。
www.nikkei.com
前述した『AN ARTIST OF THE FLOATING WORLD』(邦題:浮世の画家)についての記事である。
戦時中に戦意高揚をあおるためのプロパガンダ作品で有名になった画家が、戦後一転して「戦争に加担した」責任で非難を受ける。
このあらすじにとてつもなくやるせない気持ちになった僕は、この作品をぜひ読みたくなった。
今でこそノーベル賞作家ということで書店でも見かけることが多くなったけど、受賞以前は氏の著作を扱っている書店はあまりなかったと思う。
浮世の画家は書店でどうしても見つからず、仕方なくAmazonで購入したのを覚えている。
(ついでに調子にのって原著を選んだような気がする。)

生まれた時代が悪かった

『AN ARTIST OF THE FLOATING WORLD』を読んでから再度『Never Let Me Go』に帰ってきて思うのは、手のひら返しの世の中は怖いな、ということである。
本書では"the tide was with us"とか"turning of the tide"という表現が見られるが、the tideは意訳すればまあ「時勢」という意味でいいと思う。

『AN ARTIST OF THE FLOATING WORLD』においては、この時勢の変わり目は敗戦という一大イベントだったが、『Never Let Me Go』においては、主人公たちの境遇にかかわるセンセーショナルな事件がそれである。この事件によって主人公たちへの世論が悪い方向へ向かい、結果主人公たちの人権を擁護する運動も頓挫してしまったと語られる。

福沢諭吉が言うには、時勢が悪ければ人は何もなすことはできないという。
明治維新の際、ゴリゴリの尊王攘夷グループが新政府をつくると知るや、「もう自分は表舞台にでることもないし、このまま隠居してもいい。」
と言ったほどである。(福沢は洋学の徒であり、たびたび海外留学にでるなど外向きな人間だった。外国を敵視するような連中が政権を握るのであれば、自分のような人間は活躍できないと思ったのだろう。)
福沢ほどの人間でも時勢が悪ければだめなのである。

本書の物語においても、主人公たちは時勢に抗えるすべもなく、一人ずつ既定路線の結末を迎えてゆく。
読みおわって改めて思うけど、主人公たちは物語の中で本当になにもできていない。
誰かが革命を起こして世の中の仕組みをひっくり返す!といったドラマチックなことも一切起こらない。
仕方がない。生まれた時代が悪かったんだと思う。

だけど、主人公たち一人一人の人生には、やっぱり様々なドラマがあったのである。
カズオイシグロは執拗なまでに叙情文を書き込むことで、このことを僕らに突きつけてくる。

神なくしてどう生きる

もしも主人公たちが違う時代、違う世界に生まれることができたなら、その人生は全く違ったものになっていたに違いない。
生まれた境遇と時代が悪かったために、なんの非がないにもかかわらず不幸に陥った時、人はどのように折り合いをつければいいんだろう。

「いや、本当に自分になんの非もないといえるだろうか。この世に生まれる前に(前世で)、なんらかの罪を犯したに違いない。」
と考え、自分を納得させる方法がある。
いわゆるカルマ論である。そこから、この負の因果関係から抜け出さんとして、人は祈りや努力をささげるようになる。
または「これは神が自分に与えた試練なのだ。一見とてつもなく理不尽に思えるが、神の考えは計り知れないのだ。」という考え方もアリだ。
神の御業を信じ、この試練に耐え乗り越えようと頑張ればモチベーションも保てる。
こういうとき、やっぱり宗教は強いのである。

さて、本書ではどうなのかというと、驚くことに海外文学のくせに全く宗教的な話が出てこない。
こんなにつらい状況にありながら、主人公たちが神に祈ることは一切ない!しかし、物語の世界は決して神が不在の世界というわけではなさそうだ。
実際に宗教墓地での会話シーンなどが出てくる。

主人公たちのような人間を作り出そうという話になったとき、この世界の中の宗教家たちはきっと反発したに違いない。
宗教倫理的に完全にアウトだからである。だけど最終的に宗教家たちも折れた。主人公たちを宗教のフレームワークの外においた。
森羅万象をつかさどる神さえも主人公たちに触れることができない。世間の人たちは主人公たちのことを「恐れている」と作中では説明される。
主人公たちは神すらも超越してしまった得体のしれない存在なのだから、と読めるような気もしてきた。

神無き世界でどう生きればよいのか、この物語はそう問いかけているようにも思う。
主人公たちはその答えを見つけ出すことができず、結局なにもできずに死んでいってしまう。
そればかりか、信じる神がいないので、代わりに何の信ぴょう性のない「噂」を信じ、そこに望みをかけてしまった。
それが主人公たちを余計に哀れにみせるのである。

現代日本は神無き世界といっても過言ではないだろう。自分ではどうしようもない困難に直面したとき、何を信じて生きていくのか。
神を軽視している僕らは、神よりも確固たるものを持っていると自信を持って言えるのか。
ただの噂に一縷の望みをかけてしまった主人公たちを人ごとと思えるだろうか。

以上