読書感想文 白痴

I'm a hakuchi

雑記5 レアメタルはどれくらいレアなのか 中村繁夫『レアメタル超入門』を読んで。

レアメタル超入門 (幻冬舎新書)

 

今現在、レアメタルに関係する仕事に携わっている。

 

中国と日本の関係がこじれたときに、中国が供給を渋るぞとかいって有名になったので、聞いたことがある人も多いのではないか。レアというからには、めったにお目にかかれないめずらしいもの、というイメージもあるだろうが実はそうとも限らない。

 

レアメタルとは以下のものをいう。

”「地球上の存在量が稀であるか、技術的・経済的な理由で抽出困難な金属」のうち、 工業需要が現に存在する(今後見込まれる)ため、安定供給の確保が政策的に重要 であるもの”

経産省 鉱業審議会レアメタル総合対策特別小委員会 の定義

 重要なのは、

・産業に役立つこと。

・そのわりに流通量が少ないこと。

ということである。つまり絶対的な存在量はあまり関係がない。だから、量もある程度あるけれど凄い需要が大きいとか、存在量は確認できるけど採算のとれる採掘方法が確立されていないもの、などもレアメタルに分類されたりする。国によって分類が違ったりするし、そもそもレアメタルと呼ばずに「マイナーメタル」等と読んだりする。鉄やアルミと違って、それがメインで使われることが少ない、補助的な役割が多いからだろうか。

 

 

あまりレアではないレアメタル

したがって、上記の定義に従えば、全然レアではないレアメタルも結構ある。

 

まず一つ目はニッケルである。

 

使用用途の広い優秀な金属なので、本当にそこらじゅうに使われている。なのでそういう意味で全然レアじゃない。特にレア感のない使われ方としては

 

・メガネのフレーム

・100円玉

 

がある。ニッケルは昔から硬貨に良く使われている。5セント硬貨をそのままニッケルと呼んだりする。ちなみにバンドのニッケルバックという名前は「5セントのおつり」を意味するらしい。

 

 

別のパターンとしては、むちゃくちゃ存在量が多いものがある。

 

例えばランタンとセリウムというレアアースは結構豊富に存在している。ランタンは鉛(レアメタルでもなんでもない)の三倍もの量が存在していることがわかっている。セリウムに至ってはランタンの倍だけ存在するという。しかし、採掘抽出したりリサイクルするのにコストがかかるので商売にすることが難しい。なので流通量が少ないので、そういう意味でレアなのである。

 

つまりレアメタルのレアとはめずらしいというよりも、需要と供給を比べて供給に不安があるものを言う。事実、レアメタルの相場はかなりめまぐるしく変化する。だから、相場によってはニッケルなんかも「手の届かない」という意味でレアになる。

 

本当にレアなレアメタル

2017年5月現在、最もホットでレアな金属といえばコバルトである。現在の相場は高くて1ポンド25ドル。ピンとこないだろうが、1kgあたり6,000円もする。たとえば、銅とかアルミは1kg600円台ほどである。コバルトはかつては1kgあたり3,000円台のころもあったので、その急騰率を考えてもレアなのである。

 

用途としてはスマホのバッテリーとか、ハイブリッド車の車載用電池がある。(ハイブリッド車についてはほぼ試作段階だったが、ある程度技術的にめどがついている。)コバルトブルーという言葉があるとおり、顔料に使われたりもする。とくに車載電池の需要を見越して投機熱が高まり、ここまで急騰してしまった。車メーカーなんかは材料費の爆上げに右往左往している。リサイクルなどの技術革新にかなりの予算が割り当てられていると思う。

 

もう一つは金である。これはレアメタルではなく貴金属ではあるけど、身近なくせにとにかく少ない。セオドアグレイの元素図鑑によると、容積にして5,832立方メートルしか存在していないらしい。だいたい25メートルプール10杯とプラスもう一杯いくかどうかである。

 

さらにレアなものをあげるとすれば、アスタチンである。これはそもそも金属ではなくてハロゲンだが、たぶん一番希少なんじゃないかと思う。いまこの瞬間に、地球上に平均して28グラムほど存在している。この元素は寿命が数秒~8時間しかないため、すぐにガラガラと崩れて他の元素になってしまう。つまり崩壊したり誕生したりを繰り返して、"平均して"28グラム埋蔵されているのである。実は最近の研究で、癌治療に使える可能性が出てきている。そうすると、需要に対しての供給という意味では究極の”レア物質”になることは間違いない。

 

 

いずれにせよ、レアメタルは我々の生活に欠かせないという点でとても身近な物質である。興味があれば、冒頭の書籍よりも、下記のセオドアグレイの元素図鑑をおススメする。

 

以上。

 

世界で一番美しい元素図鑑

読書感想文7 優生思想に反対する三つの利己的な理由 『現代思想 2016年10月号 相模原障害者 殺傷事件』を読んで。

現代思想 2016年10月号 緊急特集*相模原障害者殺傷事件 (青土社)

青土社

2016年10月1日 

 

概要 

2016年7月26日に神奈川県相模原市の障害者福祉施設で発生した事件。所謂「相模原障害者施設殺傷事件」をうけての緊急特集である。11人もの学者・専門家たちの論考が特集として組まれている。

 

その多くが「優性思想」について語っている。そしてこの思想については基本的に批判をしている。優生思想とは、簡単にいえば「劣っている者は排除して、優秀なものだけを遺そう。」という考えである。容疑者は「社会の役に立たない障害者は殺すべきだ。」と証言していた。この考えが事件の動機のひとつであると考えられている。

 

当然僕もこの思想には反対である。しかしその理由を説明する際はよく考えなければいけない。こういう議論は、「なぜ人を殺しちゃいけないんですか?」というさながら真剣十代朝まで生討論チックなふわふわした議論になりかねない。僕が優生思想に反対する理由は三つある。そしてそれらはどれも自分の身を考えての帰結である。

 

 

理由1.僕は間違いなく劣性側の人間だから

僕はこの事件のことを知り、初めて優生思想という概念に触れた。非常に大きなショックを受け、恐ろしくて仕方がなかった。「僕は間違いなく排除される方だ。」と身の危険を感じたからだ。

 

 

僕は1歳のころから急に虚弱体質になり、過去に二回死にかけている。その後遺症で肺は片方が壊死し、ほぼ機能していない。小さい頃から弱弱しく死にそうだったので、色々な人に迷惑をかけた。僕のようなここまで世話のかかる子どもは生まれてくるべきでなかった。と生きていることに申し訳なさを感じた。つまり優生思想論者のいう「生きる価値のない人間」だったのだ。

 

 

幸い、高校生でやっと身体ができてきて、残った片方の肺が頑張ってくれたおかげで今は問題なく暮らしているし、働いてもいる。ただし、万一薬を切らしたり、何かの拍子に体調が悪化すると、幼少期に逆戻りすることも十分考えられる。そんなとき、優生思想論者は手のひらを返して、今すぐ僕のことを殺しにくるのだろうか。そう考えると恐ろしいのである。僕は、自分が「優生種である」などと自信をもって主張することなどできない。今、体調は比較的良い。それでも、相模原で殺害された被害者の方々と僕にはあまり大きな差があるとは思わない。

 

 

僕は自分のことを劣った人間だと思っている。そういう身体と付き合って生きている。排除されては堪らんので、優生思想に反対なのである。障害者は社会の役に立たないから殺せ、という人間は、障害は先天性のものである。と信じこんでいるのだろうか。あなたは自分のことを優生種であると自信をもって主張できるか。暴走した車に突っ込まれて両足を切断することも、不摂生がたたって脳梗塞で半身不随になることも、これから一生自分には関係がないのだ、と言えるか。

 

 

理由2.優生社会は自殺社会だから

本誌に興味深い記述があった。

 

”脳血管障害の後遺症が固定して、周囲が障害者手帳を取得するよう勧めても、それに頑強に抵抗するのは高齢者自身である。......自身が、そうでなかったときに、障害者差別をしてきたからだ。自分が差別してきた当の存在に、自分自身がなることを認められないからだ。”

 

前項にも通ずるが、自分より劣ったものを虐げるものには、自分がその劣ったものになるかもしれないという想像力が欠けているように思える。そして、いざそれが現実になった場合、がんじがらめになってしまう。「役立たずは生きる価値がない」という自分がつくったルールにより自身の首をしめることになる。

 

 

失業者は生きる価値がない、などと僕は考えたことはない。30年間、働かずに僕達のことも養育しなかった父が今も生きているからである。なので、一時的に失業した際も気が楽だった。働いているからこそ生きる価値がある、という考えに囚われていると、いざ失業した場合に自尊心が大きく傷つくはずだ。生きる価値がない者になってしまったから、死ぬ。そうでなくても、仕事を辞めることへの抵抗感から、過労死に至ることもあるかもしれない。優生思想が蔓延した社会は自殺社会をつくりかねない。そして僕は自殺をするまで追い詰められたくないので、反対する。

 

 

理由3.優生学は恣意的すぎるから

社会の役に立たないものを殺してもかまわない、というなら、何をもって役に立たないとみなすかが問題になる。そんなもの、役に立たないから役に立たないのだ、といいたいところだろう。しかし、それでは効率的で利口な人間である優生論者の面目が立たないだろう。なので役に立たないということを厳密に定義する必要がある。

 

 

ある人間が、「役に立たない人間を処分する手続きに関する法律」に対してルールを設定できる立場に立てたとする。社会に貢献しているかどうかの尺度として、年収を採用し、ある水準以下の人間を処分すると考える。さすがに年収ゼロの人間だけを処分しては、優生なものだけを残せない。では、どの水準に合わせればいいだろうか。

 

 

ここで、彼の年収が600万円だったとする。このとき、彼が「年収800万円以下の人間は社会の役に立っていないので殺すべきだ。」と主張することは決してない。せいぜい100万とか200万に設定するだろう。では仮に、とんでもない富裕層の優生論者がいたとして、彼がこの権利を得たとする。その場合、彼が設定する年収は800万円どころか2000万円かもしれない。つまり年収600万円の先ほどの優生論者は即刻処分されることになる。

 

 

要するに、生殺与奪の権を他者にゆだねることは非常に危険だということである。そこには非常に大きな恣意性が潜んでいる。結果自分の身を危険にさらすのである。「よりよい社会のため。公共のためだ。」と主張するように見えて、じつのところ誰だって自分の身がかわいい。客観的で公平な滅私奉公ができる人間などそうそういない。優生思想は、そういった人間のダメな部分に目をつぶっている理想論にも見える。

 

 

長々と書いたが、簡単に言えば「そんな社会になったら、自分が生きづらいから」僕は優生思想に反対する。情けは人のためならず、ということわざがあるぐらいである。道徳云々を説く前に、僕は利己的な理由で主張をしたい。

 

以上。

雑記4 本について書くことについて

読書感想文ブログを始めて、いろいろ書き方や内容を試行錯誤しているけど、やっぱり僕は「書評を書く」ということができないのだなと痛感した。僕は結構本の内容にのめりこむタイプだ。そもそも観賞している対象について、客観的な立場から公平なことを書くことができない。この本はこういうところが良くてこういうところがダメだと評価すること自体、あまり面白いと感じない。(他の人が書いた書評はよく読む。特に読む本を決めたいとき、購入する前などで大変参考になり助かっている。)

 

なので僕が本について書くときは、「その本を読んで感じたこと」を書くことにする。

要するにブログ題名にもある読書感想文のことだ。

 

でも「私はこう思いました。」という小学生のようなフィーリングじみたものではなく
、30年以上も生きているんだから自分の経験とか知識に対して発生した化学反応を大切にして書きたいと思う。

 

本とは「知識・経験の化学反応を促す触媒」だと思っている。具体的に、僕が本を読んでいて楽しいと感じるのは

1.「そうそう、僕もそう思っていた」と自分が普段から思っていることを著者が書いているとき
2.著者の書いていることについて「それは違うだろう」と違和感を感じるとき
3.人と話しているときに「あ、そういえばこの前読んだ本に書いていたんだけど」と本で得た知識が現実とつながるとき

である。
できればその感動を自分の言葉で表すことができればなという気持ちで読書感想文を書きたい。

 

以前友人が、

「自分は本を読むスピードが遅い。完全に理解するまで進むことができないからいつまで経っても終わらない。」ということを言っていた。本に書いていることを理解したり記憶する必要は、極論をいえば必要ないのではないか。頭のどこかに、無意識下でも断片が残ってさえすればいい。ヘドロのように意識の底に沈殿した読書経験は、友達との会話とか、ある日観たテレビの内容に刺激されて想起される。僕はこれを化学反応と呼んでいる。

 

 

書経験を重ねることはこの「感度」を研ぎ澄ましていくことだ。世の中が変わらなくとも、少なくとも自分の「感じる世界」は面白いものに変えていくことができると信じている。なので、これからも本をたくさん読んでいきたいな、と思いました。まる。

 

 

以上

読書感想文6 であるべきと、であるについて。 スティーヴン・ワインバーグ『科学の発見』

科学の発見

2016年7月15日 第5刷
(2016年 5月10日 第1刷)

 

概要 

 

ノーベル物理学賞を受賞した学者、スティーヴン・ワインバーグによるいわゆる科学史。特に「現代の基準で過去の科学を批判する」というズルイ姿勢が大きな反響を呼んだらしい。古代ギリシャの物理学から始まり、同時期の天文学、中世のアラブ世界、そしてコペルニクスからニュートンに至るまでの科学革命を扱っている。

 

本書が特に強調しているのは、「科学とは、世界を説明する方法」に過ぎないということである。(そもそもの原題が"To Explain the World"である。)つまり科学が発展するということは「より正確に世界を説明できる方法が見つかった」ということに過ぎないのである。

 

科学の歴史上、常に中心的な位置を占めてきた天文学をみればわかる。天動説という、今となっては明らかに間違っている仮説が真剣に研究されていた。実際にそれでもある程度は星の動きを説明できたからだ。そして説明できない事象にぶち当たるごとに理論が改良され、より良い方法が発見されたのである。つまり科学は、実際の自然のありさまや事実と明らかに反していても、案外平気な顔をして歴史に居座ってきたのだ。真の姿がどうであれ、当座の問題にフィットし、対処できる手段があれば採用されているのが科学なのだ。

 

世界を記述することを目的にするのか、それとも普遍で議論の余地のない真理を証明するのか。過去の科学はこの二つをハッキリと区別できていなかった。とワインバーグは批判する。

 

である と であるべきを考える

科学とは説明である。というワインバーグの主張から、「である」、と「であるべき」について考えてみた。この二つを区別することは重要だ。

 

ワインバーグは科学の発展のことを「発明」ではなく「発見」と呼ぶことに拘っている。この点が一番印象的であった。彼が言いたいことはこういうことだと思う。つまり、自然はあるがままに我々のまわりに存在している。それらを観察することを通して、そういうことだったのか、という発見をするのが科学の仕事なのだ、と。

 

つまり科学は帰納法の技術なのだと思う。だからワインバーグは「実験こそが現代の科学の要」、「過去の科学は実験を軽視してきた。」と繰り返し述べている。帰納法は「である」を論ずることなのだ。これと正反対なものは演繹的方法だろう。絶対的な公理をいくつか設定し、そこから様々な命題を証明していく方法だ。この方法が陥りがちな失敗は、現実に即さずどんどん乖離していくことだ。そして、これは「であるべき」という思想を人間が勝手に発明したにすぎず、科学ではない。とワインバーグは言いたいのだろう。過去の科学は演繹的な色合いが強かった、と本書には書いてあり、これにはなかなか驚いた。である と であるべきの違いがハッキリしていなかったのだろう。

 

どちらが役に立つか、優れているかを考えるのは簡単ではないだろう。であるべき論には思想やこうあるべきという考えが先立ち、それにあわせるために都合の良い前提やバイアスを持ち込むリスクが高い。また、いざ目の前でおきている問題に対しては役にたたないことも多い。提唱する本人に影響力がなければ、ただの机上の空論に終わることもある。だからといって、である論だけに終始するのも無力なことだ。現状を説明することは大変な重労働だ。そして物事の記述だけで力尽きる。僕らのような一般人にはこのタイプが多い。何よりも、説明できることと、それが正しいということは全くの別物ということに注意しないといけない。正しさを求めるのであれば、それはであるべき論の仕事ではないだろうか。

 

何かを語っている人間をみたとき、である と であるべき のどちらを語っているのかをよく判断することは大切だろう。そして、科学にも である論特有のデメリットがあることを理解しておいたほうがいいと思う。 

 

以上