読書感想文 白痴

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雑記10 ニーチェ『善悪の彼岸』を読んでギリギリ理解できたこと。

善悪の彼岸 (岩波文庫)

善悪の彼岸 (岩波文庫)

  • 作者:ニーチェ
  • 発売日: 1970/04/16
  • メディア: 文庫

ニーチェの著作を読むのはこれが初めてだった。「ニーチェ読むなら最初はコレを読め」的な記事で紹介されていたのがこの『善悪の彼岸』だった。たしかに何の哲学の前提知識も持っていない僕でも読むことができた。本書でニーチェが論じていることをギリギリ理解できた範囲で以下にまとめる。

真理なんてない

前のエントリーで書いたんだけど、哲学とは
「普通の人が疑わないところを疑う学問」である。
hakuchi.hatenablog.com

それじゃあニーチェが本書『善悪の彼岸』において疑っているものは何だろうか。それは「真理」である。真理とはいつどんな時にも変わることのない、誰に当てはめても正しいことである。この世には絶対的な真理がある、と心のどこかで僕らは信じているんじゃないだろうか。でもニーチェは「真理なんてものは無い。」と言っている。そもそも疑うことこそが哲学の要なのだから、疑う余地のない真理という概念自体ナンセンスだろう。

ニーチェによると、誰かが「コレが真理ですよ」と主張してもそれは所詮人の考えることに過ぎないという。人が考え出したものにはどうしてもそれを提唱した人の趣味とか偏見が反映される。下手したらその人の願望でしかないこともあり得る。つまり真理は発見するものではなくて発明するものなのである。だから真理を声高に唱えたり押し付けたりする奴には気をつけろとニーチェは言う。

じゃあなんで気をつけなくちゃいけないのだろう。真理が発明品に過ぎないといってもそれの何がダメなのか。そこで、例えば道徳について考えてみよう。道徳とは一般的に「善悪をわきまえろ。」ということである。善いとされる事をやりなさい、受け入れなさい。悪いことはやってはいけません、非難しなさい。多くの宗教や哲学がこれを真理だと教えているし、みんな当たり前だと思っている。なんだ、真理だと信じられているものは世の中のためになってるじゃないか。少なくとも悪いことじゃあないだろう。と思われる。

ところがニーチェはこの善悪というそもそもの価値観から疑う。みんな道徳を信じている。でもそれが誰かによって正しいと信じ込まされているだけだとしたら、どう思うだろうか?しかもそいつら利益のために利用されているとしたら?

奴隷道徳と主人道徳

他の哲学者が一生懸命に道徳の発明に勤しむなか、ニーチェは一歩下がって道徳を分析する。

善悪の彼岸』には
奴隷道徳主人道徳
という概念が出てくる。

奴隷とは持たざるものたちである。自分たちに力もなく、他者から支配されて生きている。そこで奴隷たちはこのような道徳を流布しようとする。いわく、「我々のようなかわいそうな人たち、弱い人たちに恵みを与えることは善いことだ。逆に弱きを虐げ自分たちの利益だけを考えることは悪いことだ。これこそが真理だ。」この考えが一般に受け入れられると、周りの人たちはこの奴隷に施しをせざるを得ない事態になる。奴隷が生き抜くため、そして主人に反逆をするために作り上げた善悪の価値観、これが奴隷の道徳だ。道徳は神が人に与えし永遠の真理かとおもいきや、元を正せばあるグループが自分たちの都合のために創り出したものに過ぎない。そう考えるとこれを鵜呑みにするのは危険だろう、とニーチェは言っている。

ルーツはどうあれ誰かのためになっているのなら推奨すべきじゃないかと思うだろう。やらない善よりやる偽善という言葉もあるくらいだ。だがニーチェが問題にしているのは、奴隷の道徳がいわゆる「持ってる」人たちの足を引っ張ってしまうということだ。持ってる人たちにとっては奴隷の道徳なんて必要がないのである。なんせ自分の力でやっていけるからだ。つまり奴隷道徳が広がると、同情ばかり求めて自分の力でなんとかしようとしない人間ばっかりになる。このままだと世の中全体がダメになる。これがニーチェの危惧するところである。

これに対して、善悪に縛られず、人間をより高みに押し上げる道徳こそが価値あるものだとニーチェは考える。これが主人道徳だ。主人の地位にいる人はさっき言ったように「持っている」人たちである。彼らは自分の能力を存分にふるってさらに高いレベルを目指したい、あるいは力をどんどん増大させたいと思っている。そしてそのことに対してなんの良心の呵責を感じない。例えば頑張って資産を形成した人がいて、その結果世の中に貧富の差が広がったとしてもその人は自分の行いを悪いとは思わない。自分の力を存分に振るい仕事を成し遂げたのだから、むしろ良い行いなのだ。そうしない人たちに同情するよりも価値があることなのだ。これが主人道徳の考え方でである。

ちょっと「それはどうなの?」と思われるかもしれないが、スポーツを例にとってみると理解しやすい。ゆるくやっている人たちではなく、プロであったりアマチュアであってもいわゆる「ガチ勢」の人たちを当てはめてみる。こういう人たちは、各々が自分の持っているテクニックとか才能を駆使して全力でプレイをしたいと思っている。実際そのほうが楽しいし、充実感がある。もっともっと上手くなり上を目指したいと思うだろう。力を高めて発揮したいという欲求を持っているのである。ここで「上手にできない人のことを考えろ。」とか「一軍は二軍に合わせなさい。」とか言われたとして、普通従うだろうか?結局、上手い人は上手い人のルールで楽しめばいいし、そうでない人は相応の場所でやればいいと思うだろう。こう考えると、主人道徳もあながち「不道徳」なことではなさそうだ。

このようにしてニーチェは、色々な道徳がどのような階級でどのように作用しているかを明らかにしていく。

善悪の彼岸

誰にでも通じる真理などない。奴隷には奴隷の道徳、主人には主人の道徳がある。つまり道徳は誰かにとっての良し悪しの問題であり、AとBどちらに価値があると考えるかという問題である。決して「善悪」の問題ではない。善悪を言い出すと、絶対的に正しいことや悪いことを押し付けることになる。

だから唯一の真理を主張する奴らは油断ならんのである。それは我々を奴隷に引きずり降ろそうとしているのかもしれない。善悪というものは道徳のごく限定的な例に過ぎない。善悪を超えた「善悪の彼岸」から、これまでとこれからの道徳の系譜を見渡して、ニーチェは語っているのである。

続く。