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読書感想文7 優生思想に反対する三つの利己的な理由 『現代思想 2016年10月号 相模原障害者 殺傷事件』を読んで。

現代思想 2016年10月号 緊急特集*相模原障害者殺傷事件 (青土社)

青土社

2016年10月1日 

 

概要 

2016年7月26日に神奈川県相模原市の障害者福祉施設で発生した事件。所謂「相模原障害者施設殺傷事件」をうけての緊急特集である。11人もの学者・専門家たちの論考が特集として組まれている。

 

その多くが「優性思想」について語っている。そしてこの思想については基本的に批判をしている。優生思想とは、簡単にいえば「劣っている者は排除して、優秀なものだけを遺そう。」という考えである。容疑者は「社会の役に立たない障害者は殺すべきだ。」と証言していた。この考えが事件の動機のひとつであると考えられている。

 

当然僕もこの思想には反対である。しかしその理由を説明する際はよく考えなければいけない。こういう議論は、「なぜ人を殺しちゃいけないんですか?」というさながら真剣十代朝まで生討論チックなふわふわした議論になりかねない。僕が優生思想に反対する理由は三つある。そしてそれらはどれも自分の身を考えての帰結である。

 

 

理由1.僕は間違いなく劣性側の人間だから

僕はこの事件のことを知り、初めて優生思想という概念に触れた。非常に大きなショックを受け、恐ろしくて仕方がなかった。「僕は間違いなく排除される方だ。」と身の危険を感じたからだ。

 

 

僕は1歳のころから急に虚弱体質になり、過去に二回死にかけている。その後遺症で肺は片方が壊死し、ほぼ機能していない。小さい頃から弱弱しく死にそうだったので、色々な人に迷惑をかけた。僕のようなここまで世話のかかる子どもは生まれてくるべきでなかった。と生きていることに申し訳なさを感じた。つまり優生思想論者のいう「生きる価値のない人間」だったのだ。

 

 

幸い、高校生でやっと身体ができてきて、残った片方の肺が頑張ってくれたおかげで今は問題なく暮らしているし、働いてもいる。ただし、万一薬を切らしたり、何かの拍子に体調が悪化すると、幼少期に逆戻りすることも十分考えられる。そんなとき、優生思想論者は手のひらを返して、今すぐ僕のことを殺しにくるのだろうか。そう考えると恐ろしいのである。僕は、自分が「優生種である」などと自信をもって主張することなどできない。今、体調は比較的良い。それでも、相模原で殺害された被害者の方々と僕にはあまり大きな差があるとは思わない。

 

 

僕は自分のことを劣った人間だと思っている。そういう身体と付き合って生きている。排除されては堪らんので、優生思想に反対なのである。障害者は社会の役に立たないから殺せ、という人間は、障害は先天性のものである。と信じこんでいるのだろうか。あなたは自分のことを優生種であると自信をもって主張できるか。暴走した車に突っ込まれて両足を切断することも、不摂生がたたって脳梗塞で半身不随になることも、これから一生自分には関係がないのだ、と言えるか。

 

 

理由2.優生社会は自殺社会だから

本誌に興味深い記述があった。

 

”脳血管障害の後遺症が固定して、周囲が障害者手帳を取得するよう勧めても、それに頑強に抵抗するのは高齢者自身である。......自身が、そうでなかったときに、障害者差別をしてきたからだ。自分が差別してきた当の存在に、自分自身がなることを認められないからだ。”

 

前項にも通ずるが、自分より劣ったものを虐げるものには、自分がその劣ったものになるかもしれないという想像力が欠けているように思える。そして、いざそれが現実になった場合、がんじがらめになってしまう。「役立たずは生きる価値がない」という自分がつくったルールにより自身の首をしめることになる。

 

 

失業者は生きる価値がない、などと僕は考えたことはない。30年間、働かずに僕達のことも養育しなかった父が今も生きているからである。なので、一時的に失業した際も気が楽だった。働いているからこそ生きる価値がある、という考えに囚われていると、いざ失業した場合に自尊心が大きく傷つくはずだ。生きる価値がない者になってしまったから、死ぬ。そうでなくても、仕事を辞めることへの抵抗感から、過労死に至ることもあるかもしれない。優生思想が蔓延した社会は自殺社会をつくりかねない。そして僕は自殺をするまで追い詰められたくないので、反対する。

 

 

理由3.優生学は恣意的すぎるから

社会の役に立たないものを殺してもかまわない、というなら、何をもって役に立たないとみなすかが問題になる。そんなもの、役に立たないから役に立たないのだ、といいたいところだろう。しかし、それでは効率的で利口な人間である優生論者の面目が立たないだろう。なので役に立たないということを厳密に定義する必要がある。

 

 

ある人間が、「役に立たない人間を処分する手続きに関する法律」に対してルールを設定できる立場に立てたとする。社会に貢献しているかどうかの尺度として、年収を採用し、ある水準以下の人間を処分すると考える。さすがに年収ゼロの人間だけを処分しては、優生なものだけを残せない。では、どの水準に合わせればいいだろうか。

 

 

ここで、彼の年収が600万円だったとする。このとき、彼が「年収800万円以下の人間は社会の役に立っていないので殺すべきだ。」と主張することは決してない。せいぜい100万とか200万に設定するだろう。では仮に、とんでもない富裕層の優生論者がいたとして、彼がこの権利を得たとする。その場合、彼が設定する年収は800万円どころか2000万円かもしれない。つまり年収600万円の先ほどの優生論者は即刻処分されることになる。

 

 

要するに、生殺与奪の権を他者にゆだねることは非常に危険だということである。そこには非常に大きな恣意性が潜んでいる。結果自分の身を危険にさらすのである。「よりよい社会のため。公共のためだ。」と主張するように見えて、じつのところ誰だって自分の身がかわいい。客観的で公平な滅私奉公ができる人間などそうそういない。優生思想は、そういった人間のダメな部分に目をつぶっている理想論にも見える。

 

 

長々と書いたが、簡単に言えば「そんな社会になったら、自分が生きづらいから」僕は優生思想に反対する。情けは人のためならず、ということわざがあるぐらいである。道徳云々を説く前に、僕は利己的な理由で主張をしたい。

 

以上。