読書感想文 白痴

I'm a hakuchi

読書感想文6 であるべきと、であるについて。 スティーヴン・ワインバーグ『科学の発見』

科学の発見

2016年7月15日 第5刷
(2016年 5月10日 第1刷)

 

概要 

 

ノーベル物理学賞を受賞した学者、スティーヴン・ワインバーグによるいわゆる科学史。特に「現代の基準で過去の科学を批判する」というズルイ姿勢が大きな反響を呼んだらしい。古代ギリシャの物理学から始まり、同時期の天文学、中世のアラブ世界、そしてコペルニクスからニュートンに至るまでの科学革命を扱っている。

 

本書が特に強調しているのは、「科学とは、世界を説明する方法」に過ぎないということである。(そもそもの原題が"To Explain the World"である。)つまり科学が発展するということは「より正確に世界を説明できる方法が見つかった」ということに過ぎないのである。

 

科学の歴史上、常に中心的な位置を占めてきた天文学をみればわかる。天動説という、今となっては明らかに間違っている仮説が真剣に研究されていた。実際にそれでもある程度は星の動きを説明できたからだ。そして説明できない事象にぶち当たるごとに理論が改良され、より良い方法が発見されたのである。つまり科学は、実際の自然のありさまや事実と明らかに反していても、案外平気な顔をして歴史に居座ってきたのだ。真の姿がどうであれ、当座の問題にフィットし、対処できる手段があれば採用されているのが科学なのだ。

 

世界を記述することを目的にするのか、それとも普遍で議論の余地のない真理を証明するのか。過去の科学はこの二つをハッキリと区別できていなかった。とワインバーグは批判する。

 

である と であるべきを考える

科学とは説明である。というワインバーグの主張から、「である」、と「であるべき」について考えてみた。この二つを区別することは重要だ。

 

ワインバーグは科学の発展のことを「発明」ではなく「発見」と呼ぶことに拘っている。この点が一番印象的であった。彼が言いたいことはこういうことだと思う。つまり、自然はあるがままに我々のまわりに存在している。それらを観察することを通して、そういうことだったのか、という発見をするのが科学の仕事なのだ、と。

 

つまり科学は帰納法の技術なのだと思う。だからワインバーグは「実験こそが現代の科学の要」、「過去の科学は実験を軽視してきた。」と繰り返し述べている。帰納法は「である」を論ずることなのだ。これと正反対なものは演繹的方法だろう。絶対的な公理をいくつか設定し、そこから様々な命題を証明していく方法だ。この方法が陥りがちな失敗は、現実に即さずどんどん乖離していくことだ。そして、これは「であるべき」という思想を人間が勝手に発明したにすぎず、科学ではない。とワインバーグは言いたいのだろう。過去の科学は演繹的な色合いが強かった、と本書には書いてあり、これにはなかなか驚いた。である と であるべきの違いがハッキリしていなかったのだろう。

 

どちらが役に立つか、優れているかを考えるのは簡単ではないだろう。であるべき論には思想やこうあるべきという考えが先立ち、それにあわせるために都合の良い前提やバイアスを持ち込むリスクが高い。また、いざ目の前でおきている問題に対しては役にたたないことも多い。提唱する本人に影響力がなければ、ただの机上の空論に終わることもある。だからといって、である論だけに終始するのも無力なことだ。現状を説明することは大変な重労働だ。そして物事の記述だけで力尽きる。僕らのような一般人にはこのタイプが多い。何よりも、説明できることと、それが正しいということは全くの別物ということに注意しないといけない。正しさを求めるのであれば、それはであるべき論の仕事ではないだろうか。

 

何かを語っている人間をみたとき、である と であるべき のどちらを語っているのかをよく判断することは大切だろう。そして、科学にも である論特有のデメリットがあることを理解しておいたほうがいいと思う。 

 

以上

雑記3 わからないということがわかるということ 加藤陽子 『戦争まで』を読んで 

戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗

 

歴史は苦手だけど、なんとか全部読めた。この本、まず何よりもむちゃくちゃ丁寧である。巻末の参考文献をみても解るとおり、ちょっとした小論文ぐらいたくさんの史料を丹念に読み込んでいる。一つの史料にたいしてどう思うか、どういったことが読み取れるかを慎重に議論している。著者は東大大学院の教授。2016年4月に行われた中高生向けの講義を再構築し、加筆したのが本書。どう考えても中高生には難しい内容なんだけど、とくに「中高生に語る」とは銘打っておらず、大人が読んでも十分に歯ごたえがある。

 

正直たいして内容は理解できていなかったので、本書の内容についてはこれ以上突っ込まない。が、twitterにも書いたとおり、少し思うところがあったので、もう少し長い文にしてブログに書くことにした。

 

 

世の中、専門家でも「わからない」ことがある

 

本書を読んでいて一番に思ったことは、「歴史ってむちゃくちゃ謎だらけだな。」ということだ。自分でも権威主義だなと思うが、東大の教授でもわからないことがある、ということにビックリ。参考にされている史料も膨大な数にのぼるが、それでも「このとき、米国にはこういう思惑があったのではないか」、「日本はこう考えていたのかもしれない」と推測の域をでない議論が進む。しかし、専門家のようによく知っている人間ほどこういった控えめな表現をする。それは普段からその問題によく取り組んでいて、散々考えた挙句に、また様々な疑問や問題にぶつかり、やっぱり確定的なことは言えないと気づくからだ。

 

それに比べて、SNS等のインターネット上の論調を見ているとわかるが、素人ほど断定的な言い方をしたがる。これは本当に恐れ多いことだな、と思う。あなたより何倍も長い時間、遥かにたくさんの史料にあたった専門家でもはっきり言えないことがある。それをなぜパンピーのあなたがハッキリと言えるのか。特にインターネットに限ったことではない。人が抱える問題や仕事について、よく事情もわかっていない人間ほど「こうやったらいいだよ!」といって茶々を入れてきたりする。よく知りもしない他人のことを、断定的に「○○なやつだ!」と非難する。

 

わからない、ということがわかるには相当の労力を要する

 

思えば、よく知りもしないことほど本人の偏見が入りやすいのではないか。だからそういう断定的な言い方をしてしまうのだろう。「ハッキリいって正解はよくわからない。」といえるのは、その問題についてよく考え、調べた人間だけに許されることだと思う。逆説的だけど、ある問題について「自分はわからない」と気づいた人間は、その問題について「よく知っている」ということになる。無知を自覚するには本当にたくさんのことを知らないと、そこまでたどり着くことができないのだ。

 

いやいや、そうは言ったって、興味の無い問題とかについて「わからない!」と言えるだろう。という人もいると思う。しかしそれは「わからない」なのではなく、「なんにもしていない」だけだ。つまり、わからないどころかその問題に取り組もうともしていない、無関心と怠惰であって、ここで話をしている「わからない」とは全く話が違う。こうしてみると、世の中「無関心」と「偏見」でできているように見えてしまってそれはそれで世知辛くて嫌だけども。

 

で、これは大発見だぞ!と断定的なことを思っていたところ、よくよく調べたら似たようなことをソクラテスが2000年前に言っていたようだ。そんなことも知らずにしばらく無邪気に喜んでいた。危なかった。よく調べておいたから自分の無知に気づき、結果恥をかかずにすんだ。やはり無知であることを知ること、「無知の知」は大切である。

 

以上

読書感想文5 使命をもって生まれてくるということ  カズオ・イシグロ 『わたしを離さないで』 【ネタバレ】

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

2006年 6月25日 第4刷
(2006年 4月30日 第1刷)

重大なネタバレがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

概要 


作者は長崎生まれの日系英国人。ブッカー賞受賞作家の長編ということで注目されたらしい。確か、日経新聞の文化欄に同作者の『浮世の画家』が紹介されていたのが興味を持った始まりだった。(先にこっちを読んでしまった。しかも浮世の画家はまだ読んでいないという体たらく。)本作は去年TBSでドラマ化もされたので、知っている方も多いのではないか。

 

 

主人公達は臓器提供のためだけに生み出されたクローンだ。残酷な運命になすすべも無く飲み込まれる若者達の青春を描く。主人公達の正体はそこまで秘密にされることなく、物語の途中であっさり暴露されてしまう。作者は狙いはそんなドンデン返しではない。このシビアな世界観をみて、読者が何を思い、感じるかということだろう。

 

 

使命を押し付けられること

作中で主人公達は使命をもって生まれてくる。命をかけて困っている人に臓器を提供すること。本人達も「聞こえはいいけど、死ねってことだろ。。。」とげんなりしている様子だ。人に使命を課すことは非常に残酷なことで、都合のいいことだ。そのことを風刺したディストピアがこの物語の舞台なんだろう。

 

 

特に、使命を盾にして青春を否定する大人たち、世の中が強調されている。使命を実現するために必要なことだけが重要視され、他はないがしろにされる。この作品ではセックスと芸術が青春のシンボルとされ、それがことごとく否定される。

 

 

セックスは性病が臓器を傷つけるリスクがあり、何よりもクローンは子供を生めないので、あまり推奨されていない。芸術は初め、主人公が幼少をすごした施設では熱心に教育される。これはクローンにも人間らしい心があることを伝え、彼らの人権を擁護するための啓蒙活動の一環だった。しかしこれも最終的には行き詰まり、創作活動など無駄だと世間は結論付ける。つまり、「お前達はただただ与えられた使命を黙って遂行すればよい。」という世の中からの圧力が存在している。

 

 

寄り道を許さない社会の窮屈さは、作中のものほどではないにしても、われわれの生活でもよく見られる。「いい歳をして道楽に明け暮れて、大人として恥ずかしくないのか。」「大人はだまって働いて子供を育てろ。」だとか、世間は常識の名をかりて他人に使命を課したがる。使命の遂行に関係のないことは子供のすることだと指摘し、悦に入りたがる。「卒業」「成人」等の通過儀礼に漠然とした恐怖を抱きながら、モラトリアムの終わりを予期し憂鬱な青春を過ごす。主人公達はいわばこれの究極の形を体験することになる。

 

 

僕は某宗教活動に関わることがあった。宗教を良いことに使っている敬虔な人と、悪いことに使っている小賢しい奴がいた。そういう奴は好んで使命という言葉を使って人を操ろうとした。人が使命を持って(課せられて)生まれてくることなど決して無いし、あってはならないと思う。もし人の使命を高らかに掲げて、それを推進するものがいれば、それは作中の大人達と同じ搾取者だ。

 

 

他人の寄り道にケチをつける者がいれば、それはただの嫉妬深い人間だ。目的や義務に関係のない知識は「教養」として尊ばれることもあるし、レジャーは堕落や逃避ではなく余裕の表れであり「休養」だ。人が持つべきは使命ではなく、本人がすすんで掲げる目標だろう。無駄なことかどうかは他人ではなく本人が決めることだ。

 

 

カズオ・イシグロが提示した残酷な世界観は、この小説のようなSFの世界ではなく、身近な社会の生きにくさを反映し、考えさせてくれるメッセージだと思う。

 

以上

 

読書感想文4 育ててもらった恩という弱み 夏目漱石 『道草』を読んで

道草 (1951年) (新潮文庫〈第267〉)

 

新潮文庫 なー1-14

2002年4月20日 第91刷

(1951年 初版 発行)

 

概要

漱石の自伝的作品。彼とその家族、そして少し複雑な生い立ちがモデルになっている。

 

 

大学の教師として働き、妻と二人(最終的に一人増えて三人)の子供を養う主人公、健三。金銭的に余裕があるとは言えない彼のもとに、島田という男が金の無心にやってくる。健三はかつて島田の養子だった。幼い頃に健三の両親が離婚したため、島田が彼の養育を引き受けたのだ。しかしその後、健三の父と島田に不和が起こり、健三は生家に復籍。以後、島田とは縁を切っていた。ちょっとややこしいので図を描いてみた。マウスで描いてみるとひどいもんである。

 

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(簡単にいえば、一時期島田の子供だったことがある。いまは縁を切っている)

 

すでに離縁しているので、キッパリと断ればいいものだが、健三は結局金を貸してダラダラと中途半端な関係を続ける。そこには情はなかったが、「育ててもらった恩がある」という通念に理性が従ってしまった様子が伺える。

 

 

最終的には健三は島田と縁を切ることになるが、相手はまだ生きてこの世にいるので今後またどうなるかはわからない。健三は「片付いたのはうわべだけ。」という。

 

 

愛があるんだか無いんだかわからない微妙な覚めた夫婦関係。金のことでまとわり付く兄姉など、当面に忙殺されながら人生は続くし世界は廻る。小説はいつかは終わる。なのに健三(漱石)の現実は何も片付かない。

 

 

ー世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こったことは何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。

(p.292)

 

漱石の名言だ。

 

 

育ててもらった恩ってそんなに大切か?

さて、健三が離縁したはずの島田に金を与えてしまったのは「育ててもらった恩」があったからだ。しかし物語全体のトーンからいっても、それは人情のような温かいものではなく、むしろ彼の弱点のように捉えられている。「育ててくれた親にマジ感謝」という美談は万人に当てはまるものではない。批判を覚悟で書くなら、僕はこの恩というものの存在がどうも「弱みを握られている」ような感じがして居心地が悪い。血がつながっていようがなかろうが、育ててもらった恩というのは人生の中でかなり大きな借りである。その気になれば、これを使って子供を支配することができるし、彼らの思考や行動を縛ることもできる危険なものだ。

 

 

こう感じるには理由がある。僕の家庭は母子家庭で、母は「女手一つで子供を育てて大変なのにえらい!」みたいなことを世間から言われていた。それは子供の頃の自分にかなり重く圧し掛かった。「ただでさえそんな大変なところ、子供(僕)が反抗したりして手を焼かせてしまったら、どれだけの負担になるだろうか。」そんなことに気づいてしまった子供の僕は、結局ろくに反抗期も迎えることもなく大人になった。そうすると皮肉なことに、心のこもった親への感謝よりも「育ててもらった恩」は自分の急所みたいになってしまった。

 

 

しかしそんな理屈はすべて棚上げして、親の庇護にありながらも反抗することこそが、思春期のお決まりの、あの反抗期とやらのミソなのかもしれない。そして親も「誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ!」などという禁句を持ち出さないマナーをもって子供の反抗に相対する。こういうことが理想だったんじゃないかな、と今になって思う。

 

 

かつての養父に対して冷徹になれなかった健三。彼を見ていると「育ててもらった恩とは何なのだ」という疑問を抱かずにはいられない。いっそ、親への感謝を一度疑ってみたくてこんなことを書いた。

 

以上

 

追記

言い訳をするが、僕の心に感謝の念など一ミリも無い、なんてことは言いたくない。実際ずっと面倒を見てくれた祖父母に対してはまっすぐに感謝している。それは、何の遠慮も無く自分の気持ちを伝えたりわがままを言える相手だったからだ。ということに最近気づいた。