読書感想文4 育ててもらった恩という弱み 夏目漱石 『道草』を読んで
新潮文庫 なー1-14
2002年4月20日 第91刷
(1951年 初版 発行)
概要
漱石の自伝的作品。彼とその家族、そして少し複雑な生い立ちがモデルになっている。
大学の教師として働き、妻と二人(最終的に一人増えて三人)の子供を養う主人公、健三。金銭的に余裕があるとは言えない彼のもとに、島田という男が金の無心にやってくる。健三はかつて島田の養子だった。幼い頃に健三の両親が離婚したため、島田が彼の養育を引き受けたのだ。しかしその後、健三の父と島田に不和が起こり、健三は生家に復籍。以後、島田とは縁を切っていた。ちょっとややこしいので図を描いてみた。マウスで描いてみるとひどいもんである。
(簡単にいえば、一時期島田の子供だったことがある。いまは縁を切っている)
すでに離縁しているので、キッパリと断ればいいものだが、健三は結局金を貸してダラダラと中途半端な関係を続ける。そこには情はなかったが、「育ててもらった恩がある」という通念に理性が従ってしまった様子が伺える。
最終的には健三は島田と縁を切ることになるが、相手はまだ生きてこの世にいるので今後またどうなるかはわからない。健三は「片付いたのはうわべだけ。」という。
愛があるんだか無いんだかわからない微妙な覚めた夫婦関係。金のことでまとわり付く兄姉など、当面に忙殺されながら人生は続くし世界は廻る。小説はいつかは終わる。なのに健三(漱石)の現実は何も片付かない。
ー世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こったことは何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。
(p.292)
漱石の名言だ。
育ててもらった恩ってそんなに大切か?
さて、健三が離縁したはずの島田に金を与えてしまったのは「育ててもらった恩」があったからだ。しかし物語全体のトーンからいっても、それは人情のような温かいものではなく、むしろ彼の弱点のように捉えられている。「育ててくれた親にマジ感謝」という美談は万人に当てはまるものではない。批判を覚悟で書くなら、僕はこの恩というものの存在がどうも「弱みを握られている」ような感じがして居心地が悪い。血がつながっていようがなかろうが、育ててもらった恩というのは人生の中でかなり大きな借りである。その気になれば、これを使って子供を支配することができるし、彼らの思考や行動を縛ることもできる危険なものだ。
こう感じるには理由がある。僕の家庭は母子家庭で、母は「女手一つで子供を育てて大変なのにえらい!」みたいなことを世間から言われていた。それは子供の頃の自分にかなり重く圧し掛かった。「ただでさえそんな大変なところ、子供(僕)が反抗したりして手を焼かせてしまったら、どれだけの負担になるだろうか。」そんなことに気づいてしまった子供の僕は、結局ろくに反抗期も迎えることもなく大人になった。そうすると皮肉なことに、心のこもった親への感謝よりも「育ててもらった恩」は自分の急所みたいになってしまった。
しかしそんな理屈はすべて棚上げして、親の庇護にありながらも反抗することこそが、思春期のお決まりの、あの反抗期とやらのミソなのかもしれない。そして親も「誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ!」などという禁句を持ち出さないマナーをもって子供の反抗に相対する。こういうことが理想だったんじゃないかな、と今になって思う。
かつての養父に対して冷徹になれなかった健三。彼を見ていると「育ててもらった恩とは何なのだ」という疑問を抱かずにはいられない。いっそ、親への感謝を一度疑ってみたくてこんなことを書いた。
以上
追記
言い訳をするが、僕の心に感謝の念など一ミリも無い、なんてことは言いたくない。実際ずっと面倒を見てくれた祖父母に対してはまっすぐに感謝している。それは、何の遠慮も無く自分の気持ちを伝えたりわがままを言える相手だったからだ。ということに最近気づいた。